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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・42
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・9 釈迦が「生老病死」の四苦からの解脱を願ったことは既に述べましたが、この方が「死」を「苦」と受け止めて、この苦からの「解脱」を願ったと言うことは、誰でも共感出来ることではないかと思います。但し、その「解脱」ということが、修行や瞑想などを積み重ねていった結果到達出来たことなのか、それとも、そういう人間の側からの何かによるのではなく人間を超えた側からの働きかけによって得るに至ったことなのか、よく言われる言葉でいう「自力」か「他力」か、ということになるのでしょうが、ただ「死の苦」からの解脱は誰でも願っているに違いありません。
但し、この場合、「苦」と見る「死」とは何か、ということが、問題であると思います。わたしたちが普通「死」という場合の死は「肉体の死」のことを言うのではないと思います。「あの人、死んだ」という場合は、明らかにそれです。それは「現象としての死」であります。現象であれば、どういう現象をもって「死」と認めるかについての、客観的に正しいと認められるか、その判断基準がなくてはなりません。
ヘンな話ですが、こういうことが問題になるのは、わたしたち人間が何らかの帰属集団の一員であるからです。具体的には国家の構成員であるからです。それは誕生の時から始まります。一人の人間が誕生すると、出生届を出さなければなりません。しかも出産を証明できる資格を国家が認めた証明人(医師、助産師)による「出産証明」を添えてです。同様に、死亡についても、国家が承認した「死亡診断」をなし得る資格を持った医師による「死亡診断書」が提出されて初めてその人が死んだことになるのです。
要するに、わたしたちの生死を確認するのは国であると言うことです。自分の生死を国に認めてもらわなくてもよいし、国としては国民に人数が増えたか減ったかという数字の問題であって、私という人格とかかわることではないのです。この人格とかかわることがないとは、死が現象としてのことであるからです
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年6月のラジオ放送予定>
6月 5日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
12日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
19日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
26日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」