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さんびか物語・・・27・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・26
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌282番
み栄は主にあれ
<神様のみ言葉>
「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない。・・・しかし、今は、律法とは別に・・・神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による義であって、それはすべての信じる人に与えられ・・・」。
~ローマ人への手紙3章2お節~22節~
この讃美歌は、宗教改革を記念して作られたものであります。
作詞者由木康は1896年鳥取県に生まれ、関西学院大学で聖書と神学を学び、1921年東京二葉独立教会(現在、教団東中野教会名誉牧師)の牧師として長い間、牧師の任にあたっていました。現在は、キリスト教音楽学校理事長として、また、青山学院大学神学科の講師として活躍されています。
彼の創作による讃美歌は、1954年版讃美歌に10程収められています。この讃美歌の創作には、次のようなお話があります。
彼は以前から宗教改革記念日に歌われるものを作りたいと思っていましたが、昭和6年版の讃美歌の編集を終えて、その資料として用いたフランス聖歌集を見ていた時、その中にアウグスグスト・ドウコペ(1836~1907)の作った宗教改革記念日の歌のあるのを見出し、その作からヒントを得て、この歌を作ったそうです。その翌年(1936年)作者の讃美歌集「竪琴」に発表され今日に至っています。
作曲者小泉功は、1907年11月3日大阪に生まれ、大阪商科大学を卒業後、しばらく同大学で経済学の講師をつとめていました。その後、実業界に入り、現在は、湯浅株式会社社長室長として活躍されています。また、音楽評論家として、同時に音楽学会監事などの要職にあります。
彼は幼い頃から音楽的な家庭に育ち、1926年から合唱を長井斉に作曲法おとびオルガン奏法を大中寅二に学びました。
彼はまた西宮市の今津二葉教会、東京東中野教会などのオルガニストを歴任し、その間に「讃美歌前奏曲集」2巻のほかに「音楽教育」を出版しています。彼の作品は、1954年版の讃美歌に9曲ほど収められています。
おもしろいことは、その大部分のものが、彼がメロデーに、和音をそえた曲であるということです。例えば37番Bの讃美歌は、390年頃の非常に古いメロデーですが、このメロデーに和音をそえて、書き直したものであります。また、245番の曲は日本の古いメロデーである「今様」であります。彼はこのメロデーを1954年に和音をそえて、やさしく歌えるように改めたのであります。
讃美歌282番REFORMATIONは、由木康が宗教改革記念日のために作詞したものを、1953年小泉功が曲を作って出来上がったものであります。
<282>
1 み栄えは主にあれ めぐみの御神は
死の陰に座したる み民をかえりみ
み救いをもたらし みとのをきよむる
かがやける使者(つかい)を つかわしたまえり。
2 み栄えは主にあれ つみびとをゆるす
限りなきめぐみは あらたにしめされ
律法(おきて)より解かれし 自由のよろこび
主に頼るこころに ふたたびあふれぬ。
3 み栄えは主にあれ 権威(ちから)のもとなる
さかえある聖書(みふみ)は われらの手にあり
世の智者よ退け 聖なるみたまは
その旨をしたしく ときあかしたもう。
4 み栄えは主にあれ とうときゆずりを
さずかりし我らは おののきかしこみ
うえもなき宝を たえせずたもちて
暗き世にかがやく ひかりとならばや。
歌詞をお読みになって気づくことは、“み栄えは主にあれ”という言葉が4回繰り返して用いられていることであります。それは、全ての栄えは主にあることを強調しているからであります。詩編57編5節に記されていますように、わたしたちも歌うべきであります。「神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように」。
神様のみ手の業によって造られた私たちの一番大切なことは、常に心から神様を讃美すること、神様のご栄光をあらわすこと、神様の救いの恵みを喜び感謝することであります。
1節では、神様の救いの恵みを歌っています。すなわち、恵みの神様は、私たちが罪の結果の死の影におびえ、不安と悲しみの中に“神の民”を捨て去ることなくかえり見て下さると同時に、救いの使者を私たちにお与えくださるという事実を歌っています。それは、主イエス・キリストが救い主として、この世に来られた時、預言者イザヤの言葉が成就した事実であります。
その言葉とは、「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上がった」(マタイ4:16)という言葉であります。同様に宗教改革以前の教会は、迷信や偽りの教えに陥っていた暗黒の時代でした。このような暗黒の時代に、再び偉大な光であるみ霊を教会にお与えてくださり教会を聖め、お救いくださったのであります。
2節では、罪人を赦す神様の限りない恵みを、感謝と共に歌っています。特に感謝しているのは、主イエスに頼る人々は、律法より解き放されているということであります。この自由、律法よりの解放を心に与えられている喜びを、イエス様は「もし、子(神の独り子・キリスト)があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ8:36)と語っておられます。
この“おきて”とは、宗教改革以前では、教会の権威という名のもとに作り出された、人の手になるいろいろの戒律であり行事のことであります。当時の教会は、この戒律と行事の上に成り立ち、この“おきて”を守ることによって救われると教えられていたのであります。
しかし、聖書の教えはそのようなものではありません。「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)という教えであり「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません」(エペソ2:8~9)という事実であります。
3節では、権威のみなもとなる聖書は“われらの手にある”という讃美の歌声であります。当時、一般の人々は、誰も聖書を持ってはいませんでしたし、聖書のみ言葉を、たまにしか聞けませんでした。ですから、当時は聖書については、無知の時代と言えます。しかし、文化が発達し印刷技術が発明されるとともに、聖書が自国語に翻訳され、直接自分で手にすることが出来るようになったのであります。
聖書は教会の特別な人々の所有から一般の人々の手にもどり、人々は自分の目で聖書を読み、神様の福音に直接ふれる喜びを、この宗教改革の戦いを通して、特権階級から勝ち取ったのであります。今日、聖書は世界中のベストセラーになっていますが手にするだけでなく、日々聖書に親しみ、この世の唯一の光として聖書を読むことをおすすめいたします。
私たちに取まして、聖霊の導きによって聖書を学ぶと共に、聖書こそが、神様のみ言葉であり、誤りなき真理であり、生活と全ての唯一の基準であることを心から告白すべき時でもあります。
4節では、神様がお与えくださる贈物について歌っています。私たちに取りまして、この贈物は本当の宝であります。では、この上ない宝とは何でしょうか。それは、神様を信じる者は、相続人であるということであります。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光を共に受けるために苦難をも共にしているなら、私たちが神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ローマ8:17)と言うことであります。
この意味は、主イエス・キリストの贖いの死を信じる全ての人がいただくことのできる特権です。すなわち、永遠のいのちの相続人であるということであります。主イエス・キリストが十字架でいのちを捧げたもうた時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたとマタイの福音書27章5節に記されています。この事実は何を意味するのでしょうか。それは、キリストの贖いの死によって、信じる全ての人が直接神様のみ前に立つことが出来るということであります。
主イエス・キリストの仲保者としてのお働きによって、もはや一切の人為的な何ものをも必要としないということであります。私たちは直接神様との交わりを持つ特権を持っています。この宝を大切にすると共に、キリストにふさわしい証人として、暗き世に輝く光として歩む責任と特権とを持っている者であります。
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=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」