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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・43
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・10 現に今も全世界において何人かの人が死んでいるのですが、統計的に一時間に何人の割合で死ぬということを知っても、それは現象としての理解であって、それが自分の存在に響くものではありません。
しかし、例えば自分の家族の一人が死という場合には、それも現象であるには違いありませんが、その現象は自分を大きく揺さぶります。嘆き、悲しみに包まれます。それは自分にとって掛け替えのない大切なものが失われたことであるからです。その大切なものというのは、人格的関係と言ってよろしいでしょう。つまり、今までは「わたし」に対して「あなた」であった関係が、「あなた」と呼ぶことも、逆にそう呼ばれることもなくなってしまって、いくら呼びかけても何の応答もなくなってしまった、ということです。人格的関係がない人の死は、現象であるだけですが、関係における死は、大切なものの喪失という意味を持つのです。
「死」は「命が失われること」という意味内容を持つことは、先述した通りですが、その「いのち」というものが掛け替えのない自分の子どもであったり、伴侶であったりする場合には、その死は、自分が命としていたものを失うに至ったこととして、もはや今までの自分ではなくなることになります。
昨日までの自分と、「自分のいのち」を構成していたものが失われた今日の自分とは違うのです。この違いに耐えられないところに、悲しみがあり嘆きがあるのです。「もう一度生き返って来て」との切なる願いがあっても叶わないところに、この「いのちの喪失」が「自分の喪失」ともなるのです。
ただし「いのちの喪失」は、自分にとって「何をいのちとしているか」ということと関連します。それは「自分の存在を意義あらしめているもの」が何であるかという問題です。それはこの世における自分の存在の評価とも関連することでもありまして、例えば政治家なり学者なり技術者なり主婦なり、そのほかの何かであっても、そのことが自分の生きている生きがいであり、存在を支えているとすると、そういう役割を果たせなくなった場合には、自分の存在の意義がなくなってしまうわけですから、身体的現象としてのいのちはあるものの、そのいのちの意義内容となっているものは喪失したことになります。いわゆる「役立たず」人間になってしまうわけです。
そういうことから言って、政治家としての死、技術者としての死など、その人が自分の一番大切にし、拠り所としていたものの喪失が、自分の死ともなるのです。この死に耐えられないので死を選ぶ人もいます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年7月のラジオ放送予定>
7月 3日 大藪 博康 (名古屋高等学校・中学宗教部長)
10日 大藪 博康 (名古屋高等学校・中学宗教部長)
17日 高見伊三男 (名古屋学院大学宗教部長)
24日 文 禎顥 (名古屋学院大学経済学部准教授)
31日 葛井 義憲 (名古屋学院大学法学部教授)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」