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ビルマ
戦犯者の獄中記 (64) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・12・
―落下傘諜者を追跡して・・5・・
逮捕した諜者は英印混血児である名をホード中尉だと言う。彼は足に負傷していたので逃げることができなかった。落下傘で降下するとき、落下傘が木に引っかかりその際負傷したとのことであった。彼の任務は無線士でインドに駐留している英軍と連絡する任務である以外のことは、一切自白しない。さすが英軍の将校である。彼は腹巻に金貨(10円銅貨大)98枚、地図、日本軍が発行していた軍票を持っていた。他に無線機一台、暗号書、拳銃一丁を押収した。明るくなったので逃げた二人を追跡したが、その行方は分からなかった。
浜田曹長は逮捕したホード中尉と押収品を持って、状況報告のため分隊に帰った。残った我々で二人の追跡を続けた。
二人の逮捕は時間の問題であると思っていたのにどこに消えたのかその後何の手がかりもないまま1カ月は過ぎた。
乾期もいつしか雨期になり、毎日降り続く雨との戦いの明け暮れである。一日に30キロから40キロは歩くのである。宿泊地は竹と木の葉で作った高床式のニッパ葺きの小屋である。上から下までズブ濡れになった衣類を乾かして、その日の夕食をするのである。その食事にも困った。米はどこの家にもあるが副食物がない。どんな家でも鶏は放し飼いにしているので、それを買い上げてそれを塩焼きにして食べた。
野鳥のように引き締まった肉の味はたまらなかったが1カ月も昼も夕食も食べていると鶏の肉を見ただけで食欲がなくなってしまう。現地人は木の芽、野草類を摘んで塩汁を作り、それにナピー(魚と唐からしを入れて塩から風にしたもの)が常食であるが、私たちの口にはなかなか馴染めない。野菜を作らず焼畑米作のみで生活している彼らから野菜を求めることは不可能であった。
とにかく早く彼らを逮捕して帰りたい。あせりの気持ちは私ばかりではなかったと思う。そんなある日のことであった。A村からイエ町に沿っている河の下流にB村があることを知った。まだ一度も行ったことのない部落である。現地の案内人を雇い20キロくらいあるB村へ行くことになった。河に沿っている道はだんだん細くなり、とうとうなくなってしまった。案内人は「ダ」(常時、携行している山刀)でジャングルを切り開いて進む。500メートル進むのに1時間もかかる。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」