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第74課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・20・・・
B キリスト者の市民的義務・・・4・・・
13:1~2・・・4・・・
13:1で、パウロが「上に立つ権威」は、神によって立てられていると教えられていることを見てきました。すなわち、ある意味で、それは神のご意思に適って存在しており、神の許容と摂理によって存在しているのです。たといそれが御子を崇め仕えることをせず、その故に、神を喜ばすものでないとしても、神はそれが存続し、人間社会において機能することを許容しておられるのです。
「この聖句(1,2節)は、君主政治、貴族政治、民主政治、また、それらの変形のあらゆる政治形態の下で生きている人たちに適用されることができるのである。権威の座にある者は、どのようにして、また、誰によって任命されたにしろ、その領域内においては服従されるべきなのである。存続している限り、神によって任じられているのが、上に立つ権威なのである。パウロにとっては、ローマ皇帝が、上院によって、軍によって、あるいは人民によって指名されていると言うことや、シーザーが皇帝権を持つのが正当かどうかということや、シーザーの後継者たちが正当な権威継承権をもっているかどうかということなどはあまり重要ではないのである。
彼が意図していることは、為政者は服従されるべきであるという単純な原則を提示することである。この服従の限界は各々の場合の性質から決定されるべきなのである。彼ら為政者たちは合法的な権威を行使する限り、服従されるべきなのである。パウロが妻たちに夫たちに従いなさいと命じる時、妻たちは夫としての彼らに従う事を求めているのであって、事業主とか君主とかのように、彼らに従うことを求めているのではない。子供たちは親としての親たちに従うことが求められているのではない。他のすべての場合においては、決して強力なものではない。・・・私たちが為政者に服従するのは彼らがその権威を神から受けているからである。政府というものは、神的制度であるばかりでなく、その政府が存続している形態や、その働きによってその政府が機能を果たしている人物などは、神の摂理によって決められているのである。どのような程度の為政者であろうと、すべて神の指定により行動しているものと見倣されるべきである。神が個々の為政者を指名されるということではないが、その為政者が存在すべきであることが神のみ旨であるからには、実際に権威をまとっている者はすべて、服従を要求する権威を持っていると見做されるべきであるというのが神の御意思なのである。
この聖句の命令には、服従そのもの範囲には限定はあるにしても、服従の対象に関する限り、限界はないのである。すなわち、私たちは現在上に立っているすべての権威に対して、それらの権威が合法的であろうと見做されたものであろうと、正当であろうとなかろうと、服従すべきことが命じられているのである 。実際に君臨している皇帝は、ローマのキリスト信者たちがその王権についてどう考えようと、彼らによって服従されるべきであった。しかし、もし、皇帝がその権威の範囲を越えて、偶像を礼拝することを要求するならば、彼らは人に従うよりは、神に従うべきであったのである。これこそ、すべての人間の権威の限界なのである。人間の服従が、神への服従と対立するときはいつでも、不服従が義務となるのである」。(C・ホッジ)
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」