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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・45
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・12 死とは自分のいのちがなくなることであり、そのいのちとは自分の存在を意義あらしめているものであることは、先述した通りです。そして、それは、自分の意識においての問題です。意識がない人には、死は問題になりません。肉体にしても、社会における位置などにしても、また家族などとの関係においても、そこにいのちを見出しているから、その喪失が意識される時に、その喪失状態としての死が問題となるのです。
そしてそれは「人間」という日本文字が「人と人との間にある存在」であることを示しているように、自分以外のものとの関係において始めて問題となるのです。全く孤立している人間というものはあり得ませんが、仮にあるとしたら、その人は生きている自分について何らかの意識を持つと言うことは有り得ないでしょう。
今あるわれわれというものは、今まで関わって来た他者との関係において造り上げられてきた自分であって、その自分が今の自分に対する判断を下すのです。「死んで花実が咲くものか」という判断はそれです。「もっと長生きしたい」というのも「この世に生きている方が良い」という価値判断、逆に言うと「死んだら何もかもおしまいだ」という価値判断があるからです。もっとも「こんなに芽が出ないのなら、見切りをつけた方が楽で良い」という判断もあります。
更には「死ぬことは益である」という聖書が告げている価値判断もありますが、要するにわれわれは、純粋に単純に自分というものを作り上げてきたわけではなく、殆ど自分以外の他者との関係の中で築き上げられてきている自分なのです。そういう既成の自分が、今の自分や変わって行く自分に診断を下すのです。「こんなに物忘れがひどくなって来たのではダメだ」とか「皺だらけになってどうしょうもないわ」などという自己意識を待つようになるのです。もし「だんだん物忘れがひどくなっていくのは高齢化の特権であって、若い時には忘れて良いものまで覚えていて、そのために禍が起きるのだ」とか「皺が増えるようになれば必死で人目を引くようにお化粧に時間や費用をかけることもないし、あるがままでいいのだから、こんないいことはないよ」とかいうような価値判断が自分の内に作り上げられていたなら自分についての否定的判断を下すことなどなくて済みます。
ところがどっこい、この世の中で主演を演じている価値判断は、どうもそれとは違うようですし、大勢の前にたじろいでしまうわれわれは、いつのまにか主流に押し流され、飲み込まれてしまうのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年9月のラジオ放送予定>
9月 4日 久保田証一 (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
11日 久保田証一 (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
18日 長谷川 潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
25日 長谷川 潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」