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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・46
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・
答・・13 この主流が「死んだらおしまいだ」とか「力が衰えてきたからもうダメだ」みたいなことを言わせるのです。主流に逆らうことにエネルギーを消費する必要はありませんが、少なくとも「自分にとってのいのち」について、既成のものに取り囲まれているだけでは、結局その既成のものに支配され、その影響をもろにかぶった自分による以外に、自分を意識し得なくなってしまうのです。
周知のように、価値観は時代の変遷と共に移り変わりました。わたくしたちの国では、太平洋戦戦争での敗戦前後では、全く変わりました。それは今までいのちとして大切にしていた価値体系が一挙に変わってしまったことで、このことへの対応には難渋しました。
その最たるものは神であった天皇が人間宣言されたことです。この変化への対応に皆難渋しました。それでもこの状況を切り抜けたのは、とにかく食うことが先決で、このことへの取り組みでエネルギーの大部分が消費されてしまったからです。
では、飽食時代といわれるこんにちどれだけ揺るがない価値観に立っているかと言えば、これがはなはだ怪しいのです。つまり、あらゆる意味において死は恐るべきものであり避けたいことであることに変わりはない、ということです。人間がすべて死ぬべき存在であることは誰でも分かっていますが、これを直視して何かが生まれてくることは期待出来ませんから、みな避けます。死の力はすべてのものは呑み込まれてしまうからです。
死に向かう人間は、初めから、この点については負け戦をしていることがはっきりしています。「死にたくない」と叫んでも、死の力は確実に、人間を呑み尽くしてしまうのです。不老長寿の妙薬を手に入れようとしたり、体の再生を願って保存法を極めたりしてきましたが、みな儚い抵抗でしかありません。そのように確実に死ぬということが分かったなら「では死ぬ前にやりたいことはみんなやって悔いのない人生を生きよう」というので、生きている内に楽しみを追及したり、この世での存在意義を自認できる働きに専念するなど各自各様の対応をしています。が、それでも「死とは何か」「死ですべては終わりか」という問題は依然として未解決のままです。釈迦は「死からの解脱」を悟った人であると言われていますが、すべての人がそれを聞いて「分かりました」と言うことが出来るか疑問です。
以上のことを踏まえて「では、キリスト教では、確実に死に打ち勝つ力をくれると約束するのか」と問われたら、これも直ちに効き目の有る妙薬を提供するような仕方での応答をすることは出来ません。ただ、聖書全体を通して、特にイエス・キリストによって語られ示されていることの紹介と解説は出来ますから、それを死について考え、かつそれを通して何らかの死に対する方向付けを得ていただければ幸いです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年10月のラジオ放送予定>
10月 2日 杉本和道 (日本基督教団各務原教会牧師)
9日 杉本和道 (日本基督教団各務原教会牧師)
16日 辻 順子 (日本基督教団鳴海教会牧師)
23日 辻 順子 (日本基督教団鳴海教会牧師)
31日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」