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さんびか物語・・・31・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・30
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌312番
いつくしみ深き 友なるイエスは
<神様のみ言葉>
「滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりもたのもしい友もいる」。
~箴言18章24節~
讃美歌312番は、世界中で広く愛唱されている祈りとそれにお答えくださる神様への感謝の歌であります。
讃美歌312番の作詞者ジョセフ・スクリィビンは、1820年アイルランドのダブリンで生まれました。彼はダブリンのトリニティ・カレッジを卒業して後、25歳の時にカナダに移住しました。恵まれた境遇で育てられたスクリィビンは、なぜアイルランドを去ったのでしょうか。それは一つの謎ですが、多分彼のフィアンセが結婚式の2、3日前に溺死したからでしょうか。
とにかく、悲しい思い出に満ちたアイルランドを去った彼は、新しい生活と志しを持ってカナダに向かったのであります。カナダでの彼は、家庭教師をして生活していました。また、僅かな収入の中から身体障害者や貧しい人への奉仕と愛の業に一生を捧げました。寒い冬オーバーのない者へは脱いで与え、病人や未亡人のために、自分でのこぎりを引いて薪木を作り助けるという、信仰と愛の人でありました。
スクリィビンの毎日は、イエス様がお教えになった大切な戒め“あなたの隣り人を自分と同じように愛せよ”を実践する日々でした。高齢になった彼は、病に倒れた時、多くの友人が看病に来ました。ある日、その一人がふと一つの原稿に目を止めました。これが讃美歌312番であったのです。それは愛と慰めに満ちたものでした。それはWhat a friend we have in Jesusを自分の愛する母が非常に悩んでいた時に、母を慰め励ますために書いたもので、他人に見せるためではないと彼自身語っています。
1865年友人の勧めによってSocial hymns Original & Selectedという讃美歌集に発表され、広く愛唱されて来ました。
讃美歌312番の曲WHAT A FRIENDは、歌詞発表後3年たった1868年に作曲されたものであります。
作曲者チャールズ・C・コンヴァースは、1832年米国のマサチューセッツ州に生まれ、後にドイツで4年間音楽を学び、帰国後法学を研究して弁護士や裁判官にもなりました。また彼は才能豊かで発明家でもありましたが、彼の名声は、この讃美歌にのみ基づいています。
彼は自分の名前を用いずKari Redanというペンネームを常に用いていました。1870年Silver Wingsと言う讃美歌集にスクリィビンの歌詞と共に一つの讃美歌として発表されました。後に有名な歌集Ira・D・サンキーのGospel Hymns
No1におさめられ、サンキーが大伝道者ムーデーのあらゆる伝道集会で、この讃美歌を歌ったために、大いに人気のあるものとなりました。
<312>
1 いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を。
1節の1行目と2行目で作者は“いつくしみ深きともなるイエス”が、私たちになさった偉大なみ業を中心に歌っています。そのみ業はどの様なものでしょうか。それは、贖いのみ業です。キリストを信ずる全ての者の罪、とが、憂いを取り去るためのみ業であります。主イエス・キリストは、人の罪のために十字架にはりつけになる前夜、その弟子たちに、最後の大切な教えをなさいました。その一つは、「友」という言葉の本当の意味についてであります。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」。(ヨハネ15:13)と、イエス様はお教えになりました。まことの友はとは、自分のいのちを捨てるほどに、その友を愛しているものであると言うのであります。その本当の、そしてまことの友とは、誰でしょうか。主イエス・キリストご自身です。
罪と憂いの鎖に縛られている私たちを、その鎖からとき放つために、十字架の上で私たちの支払うべき代価を、イエス様は身代わりとして支払われたのであります。「神が御子(主イエス・キリスト)を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)とお語りになったみ言葉も同じことを語っています。
私たちの唯一の友は、主イエス・キリストのみであって、このお方以外に私たちを罪より救って下さるお方は、誰一人いません。使徒の働き4章12節に次のように記されています。「この方 (主イエス・キリスト)以外にはだれによっても救いはありません」。あなたは―まことの友―あなたを罪より救う友―をあなたの友となってください。滅びに至らせる友に従ってはいないでしょうか。
間違った見せかけの宗教や友人に、心を惑わされないように、気を付けてください。また終わりの2行では、私たちに一つの根本的な質問をしています。それは、あなたは何故、心の嘆きを遠慮なく友なるイエス様に述べ、その負っている重荷をイエス様にお任せしないのですか、ということであります。
主イエス・キリストは「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしはあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)とお約束なさっているのですから。“すべて”とは、あなたも含まれています。スクリィビンが歌っていますように、あなたも主イエス・キリストのみ前にその重荷をおろしてください。
2 いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん。
2節では、他の言葉をもって1節で強調していることを繰り返しています。まことの友であるキリストは、私たちの弱さ、悩み、悲しみに沈む心を知ってくださり、私たちの祈りにお答えくださると歌っています。これは真実です。私たちは決して絶望に沈むことはありません。主イエス・キリストはかならず、慰めと力をお与えくださり、勝利することが出来るのであります。
3 いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて 労わりたまわん。
3節では、イエス・キリストの変わらぬ愛について歌っています。世の友、人の心は変わりやすいもので、富み栄えている時の友が、滅び貧しくなった時の友でしょうか。人の心は、うつろいやすいものであります。しかし、主イエス・キリストは、“兄弟よりも親密”な友であられます。
詩人ダビデは次のように歌っています。「たとい、父母が私をすてても、主が私をむかえてくれるでしょう」(詩編27:10)。
「世の友われらを 棄て去るときも 祈りにこたえて 労わりたまわん」。
この“祈りにこたえて”と言う言葉は3節の一番大切なことばであります。いつくしみと恵みに富んでおられるイエス様は、私たちを友としてくださるのであります。主イエス・キリストは、そのことを「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:14)と語っておられます。
友なるイエス様を、唯一の友として受け入れること、聖書を通して私たちに命じることを喜びと感謝をもって行うこと、また、祈りをもって深く、主イエス・キリストに交わりを持つことを願い求めたいものであります。このことを通して、私たちも主イエス・キリストのまことの友となることが出来るのであります。
主イエス・キリストは、そのような人々を友として愛し、受け入れてくださり、永遠のみ国へと招いてくださいます。
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=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
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