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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・47・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・14 さて 聖書によれば、人間は初めから死ぬことが定められていたとは見ていません。むしろ死などないものとされています。それは、人間は神によって、神にかたどって造られた者であると見ているからです。「神はご自分にかたどって人を創造された」というのがそれです(創世記1章)。これは「神との人格的関係に生きるもの」として造られたということでありまして、神が永遠である以上、その関係に生きる者に死はないという理解です。
「エデンの園」の話は以前にも触れました。ここは「楽園」(パラダイス)であったとされています。何が楽園であったかというと、そこは神によって設定された場所であったからです。このことは聖書を理解する上で極めて重要なことですが、楽園というのは、究極の支配者が責任をもって人間を生かしておられる場所なのです。つまり神不在の楽園などというものはあり得ないということです。
このエデンの園に、アダムとエバは、生きる者とされました。そしてこの園の管理を委ねられました。「大地を耕し、そこになる木の実は自由に食べてよい」と言われました(この話、つまり「創世記」を書いた人は、どうやら果樹栽培の地域に生きていた人のようです)。ただし、それには一つの条件がつけられていました。それは「善悪の知恵の木からは、決して食べてはならない」ということでした。どうしてかというと「それを食べると必ず死んでしまう」という理由からでした。
この話にはいろいろな解釈がなされていますが、要するに、「エデンの園」というところは一つの条件を守ってさえいれば、そのほかのことは人間が全く自由に生きてよいとされているところであったということです。その条件とは「禁断の木の実はとって食べてはならない」ということであり、その木の実とは「善悪の知識の木」になる実というのですが、これが分かりにくいのです。
通俗的には林檎のことみたいに言われていますが、これは一種の比喩的抽象的表現でありまして、その内容は「善悪についての究極的な判断をなし得る者となること」と言ってよろしいでしょう。昔の帝王のなかには「余の決定は正しい」と言った人がいました。大日本帝国時代には「朕帷フニ」といえばそれは最高の決定となったのでした。こういうことを言うことが出来る立場としての「お山の大将」や「亭主関白」などはそのミニ判と言えましょう。要するに自分がトップの位置につきたいというのは、自分が究極的な位置を占めたということで、それは本来神様が占めておられる場であるのに、それにとって代わることが出来るというのは、何とも魅力的は誘惑です。この誘惑に、多くの専制者や独裁者志願の人たちがイチコロで引っかかりました。そしてその結果は惨憺たるものです。歴史はそういう人たちの夢の跡です。
神様が「禁断の木の実」をエデンの園に置かれたのは、そういう意味において、人間に、人間の位置を失わせまいとしての、不可欠にして実に周到な配慮に基づくものであったと言うことが出来ます。以前に述べたことの繰り返しになりますが、「エデンの園とは神の戒めのもとにあっての自由な世界」と言うことが出来ます。それが「神と共に生きる世界」であるわけです。ところがアダムとエバはこの禁を犯しました。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年11月のラジオ放送予定>
11月 6日 笠井 恵二 (中部学院大学特任教授・宗教主事)
13日 志村 真 (岐阜済美学院宗教総主事)
20日 志村 真 (岐阜済美学院宗教総主事)
27日 西島麻里子 (岐阜済美学院高等学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」