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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・48・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・15 アダムとエバが禁断の木の実をとって食べたのは、「あれを食べると目が開けて、神様のように事の善し悪しをちゃんと決められるようになれるんだよ、食べてみてはいかが」とそそのかのす奴(サタン)がいて、それにまんまと引っかかっちゃったからです。人間はうまいこと言っておだてられると引っかかって大事なものを失ってしまうのです。こうして「失楽園物語」が生まれるに至るのですが、この話の中核となっていることは、神の戒めに従って神と共に生活していた者が、神よりも自分たちの思いを優先させたことによって、神との関係に生きてきた自分ではなくなってしまった。
つまり、神を無視して生きる人間になってしまったということです。こうして、彼らは、神に従って生きてきた今までの自分を失いました。「あれを取って食べると死ぬよ」と言われていた通り、神との関係に生きてきた自分は、神からの禁断を犯した途端に、そういう関係存在でなくなりました。神に対しては死んだものとなったのです。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)とはこのことです。つまり神様という「的」を外して、自分の思いに「的」を絞った結果を受け取るのは「死」なのです。
わたしたちは「死」と聞くと「体の死」のことを考えます。ただしそれは物理的現象であって「死の意味内容」を含んでいません。これは「生」についても同様であって「体が生きている」と言うだけでは、その意義が捉えられていません。
しばしば述べてきましたように、人間は、その字の通り関係存在です。この関係が失われて回復されないところに死別の悲哀があります。アダムとエバは、神の戒めに従って生きることを止めて、自分たちだけで生きる者となりました。
これは確かに生きていることではありますが、神に対しては死んだものになってしまったのです。神を抜きにした人間の独走は、こうしてアダムとエバがトップランナーとなりましたが、そのあとに続く人間も皆同じバトンを受け継いで、「エデンの東」を走り回っているだけです。
ということは、アダム同様、わたしたちすべては、このままでは究極の責任者により頼むことが出来ないまま、従って「あなたのみ手に委ねます」と言う相手を失ったまま死ぬしかありません。存在の根底を支える真の主を失ったままこの世を去るのですから、不安であるのは当然です。自分が主となっている限り、それで終わりです。どこまで行っても自分しかいないとなるのが、神様抜きで生きる者の当然の帰結です。
死を恐れるのは、人間の生死を超えて、しかもそれを包み込む神の永遠の命を知らないからです。こういう人間に、新「エデンの園」へと招き入れるために来られたのがイエス・キリストです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年12月のラジオ放送予定>
12月 4日 草野 誠 (日本キリスト改革派恵那教会牧師)
11日 草野 誠 (日本キリスト改革派恵那教会牧師)
18日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
25日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」