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さんびか物語 ・・・33・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・32・・・
ポーリン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌331番
主にのみ十字架を
<神様のみ言葉>
「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい・・・』」。
~マタイの福音書16章24節~
この讃美歌331番“主にのみ十字架を”は明治の時代から今日まで、日本の多くのクリスチャンに愛唱されている讃美歌の一つと言えましょう。
原作者トマス・シェパード(1665~1739)は、英国教会から非国教会へと転向した牧師の子供として、イギリスの片田舎に生まれました。彼は大学を卒業してから国教会の聖職になりましたが、1694年に非国教会に転じ、ノティガムの独立教会の牧師となりました。その後、エセックスのボキングに移って、納屋の中で集会を始め、それを教会にまで育て上げたと、「讃美歌略解」に記されています。
彼の作品としては数巻の説教集のほかに、同時代の讃美歌作者ジョン・メイスンの詩であるPenitential Craiesの続きとして書いたものが数編あり、それらのあるものは、今日でも用いられているそうですSongs of Praise(1693)に納められていたものですが、原詩は1節だけで2節以下は誰が作ったか不明だそうです。しかし、2節以下は作曲者G・N・アレンによったものではないかと、想像する人もおります。
また、原作の詩よりも日本語訳の方が優れている歌の一つでもあります。英文には5節ありますが、日本語の方は、それが4節に圧縮されています。その上、英文の4節と5節は日本語の方には訳されていません。そのかわりに、英文の3節にあることは、日本語の3節と4節にあります。
作曲者ジョージ・ネルソン・アレン(1812~1877)は、シェパードのおおよそ150年後に、アメリカのオハイオ州のシンシナティ市に生まれました。アレンはまず有名な音楽家ロウエル・メイスンの教えを受けたが、その後、1838年にオハイオ州のオウベリン大学を卒業しました。
アレンは卒業後、同大学の音楽講師となり23年の長い間、教授として宗教音楽を担当しました。その頃彼は、オウベリン大学に合唱団と管弦楽団とを組織しましたが、これが1865年に名高いオウベリン音楽学校設立の動機となったそうです。
彼が編集出版したSocial and Sabbath Hymn Book(1844)は、米国讃美歌史上重要なものとなりました。ここに納められていた331番のMAITLANDは彼の代表作の一つであり、当時は全米の教会で広く歌われていました。日本の教会では今日に至るまで愛唱されている讃美歌の一つと言えましょう。
<331>
1 主にのみ十字架を 負わせまつり
われ知らずがおに あるべきかは。
2 十字架を負いにし 聖徒たちの
み国によろこぶ さちやいかに。
3 わが身もいさみて 十字架を負い
死にいたるまでも 仕えまつらん。
4 この世の禍幸(まがさち) いかにもあれ
さかえのかむりは 十字架にあり。
この歌の背景にあるみ言葉によりますと、主イエス・キリストはその弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)とお教えになられました。まずここで、注目しなければならないことは、イエスのみ言葉はキリスト(救い主)の弟子になろうとする人々に対して語られたものであるといことであります。
全ての人々は、二つのグループに別けられると思います。すなわち、イエス様のお招きの言葉を聞いて、従って行こうとするグループとキリストを信じず信仰の道を拒否するグループであります。
私たちの人生の道にも、この二つは深く関係してまいります。それは、イエス・キリストのみ言葉を聞いて、イエス様に従ってついて行くか、それとも無視するか否かという、二つに一つの道であります。しかも、その決意はどこまでも、私たち一人一人の自由意志にまかされています。
この讃美歌の1節では、キリストが負いたもうた十字架と、その十字架に対して自分とは何のかかわりもないかのように知らん顔をする人々の態度を美しい言葉をもってですが、せめています。すなわち、「われ知らずがおに、あるべきかは」という言葉であります。ですから、キリストのまことの弟子として、私たち一人一人が、自分の十字架を負って、キリストに従って行かなければなりません。というのが1節と3節に歌われているメッセージであります。私たちは、主にのみ十字架を負わせまつるのではなく、喜び勇んで、死に至るまで、自分の十字架を負ってキリストに仕えていく者でなければならないと力強く歌っています。
2節では、もうすでに召された聖徒たちについて歌っています。彼らはこの地上での十字架の旅路を終えて、神のみ国での喜びと幸いとを味わっている、その恵みについて歌っています。
また、4節では、「この世の禍幸(まがさち)、いかにもあれ、さかえのかむりは、十字架にあり」と歌っています。み言葉によりますと栄えの冠と十字架は常に一つに連なり、一体となっていて、切り離すことの出来ない結びつきがあります。ヤコブの手紙1章12節には「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」と言われています。
もし、私たちが主イエス・キリストについて行きたいと思いますなら、次の2、3の点について、はっきりと知らなければなりません。
イエス様は、その条件をご自分の12弟子に率直な言葉をもって教えられました。
それは、まず「自分を捨てること」であります。この自分を捨てることとは何を意味するのでしょうか。それは、己を忘れて、キリストをすべてにおいて、第一にすること、また、私たちの主な目的を、神のみ旨にかなうものとすること、また従わせることであります。
また、キリストご自身が語られたみ言葉を私たちの言葉(自分自身)にしなければなりません。イエス様は「わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方(父なる神)のみこころを求めるからです」(ヨハネ5:30)とお語りになられました。神様のご栄光を現わし、神様を喜ぶことはイエス様の弟子としてふさわしいあり方と言えます。
その次の条件といたしまして、「自分の十字架を負うこと」です。この十字架は人によって異なるでしょう。ある人にとって、それが信仰のために受ける迫害であったり、またある人には、病気や悩み、苦しみ、試みなどでありましょう。
ヨブ記には「人は生まれると苦しみに会う。花火が上に飛ぶように」(ヨブ5:7)と記されています。しかし、キリストの弟子は、キリストよりの救いの恵みとみ力によって、自分の十字架を、不平なく負うばかりでなく、それを高くかかげ、迫害と悩みに打ち勝つことによって、より一層の神様のお恵みと救いとを、素晴らしい証しとして、かかげることが出来るのであります。
3つ目の条件として、主の弟子は「死に至るまで忠実でなければなりません」。キリストに「従わなければなりません」。この二つのことを心から願い求めますなら、神様から私たちは永遠のいのちの冠を頂くことができます。讃美歌の歌詞にありますように実に「さかえのかむりは、十字架にあり」であります。
「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ、悪魔はあなたがたを試すために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは10日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」(ヨハネの黙示録2:10)。
このみ言葉こそ大切です。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」