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解説 ウエストミンスター信仰告白 (52)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第24章 結婚と離婚について・・2・・
4 結婚は、み言葉において禁じられている血族あるいは姻族の親等内でなすべきでない(1)。またこのような近親相姦的な結婚は、人間のどのような法律や当事者たちの同意によっても、そのような人々が夫婦として同棲ができるよう合法化することは、決してできない(2)。男子は自分の血族で結婚できるより以上に近い妻の血族とは結婚できないし、女子も自分の側でできるより以上に近い代の血族とは結婚できない(3)。 〔最後の一文は、日本基督改革派教会第17回大会削除〕
1 レビ18章、Ⅰコリント5:1、アモス2:7
2 マルコ6:18、レビ18:24-28
3 レビ20:19-21
四 結婚は神の言葉で禁じられている血族、あるいは姻戚関係内ではすべきではない。そのような近親相姦の結婚は、いかなる人の法律をもってしても、あるいは当事者の合意をもってしても、そのような人々が夫婦として同棲できるように、合法化されることは決してできない。当時王室で行われていた愛欲にからむ無理を法的に認容する処置は実際にあった。
一項での規定と同様に、旧約時代に行われていた習慣であって、しかも新約時代では、かならずしも明白な禁止はないけれども、キリスト教的分別から、性的乱れの防止―すなわち、結婚そのものの制定されている目的上―このようなことは禁じられるのは当然である。
レビ記18章の禁止命令は一夫一婦制への違犯、または、単なる一時的性欲による姦淫の具体的な例を記しているもので、このような姦淫や淫行は、きわめて機会が多く、また、それだけ隠れた遊戯としてなされえる性質のものであり、今日でも、ある地方では平気で行われている悪習の一種に属するものである。
このような悪徳への厳しい良心が養われていないならば、家庭、社会の乱れは防止できない。性の純潔が姦淫を犯す相手の貞操であるのみでなく、自分自身の貞操を失う罪であることを男子も女子とともに十分に教えられる必要がある。近親間の結婚禁止は、聖書の言明というよりも、結婚制度が神によって立てられている本来の主旨への正しい理解からの推論と見るべきである。
5 婚約後に犯した姦淫または淫行は、結婚前に発見されるならば、潔白な側にその婚約を解消する正当な理由を与える(1)。結婚後の姦淫の場合には、潔白の側が離婚訴訟をし(2)、離婚後はあたかも罪を犯した側が死んだかのように、他の人と結婚しても合法的である(3)。
1 マタイ1:18-20
2 マタイ5:31,32
3 マタイ19:9、ロマ7:2,3
五 婚約後―婚約前でも淫行の事実が隠されていた場合も同様であろう―で結婚前に発見された場合にのみ、解消の正当性が認められる。解消や離婚は、このようは不倫行為の防止のためのみ許される一種の正当防衛、または、加罰手段と考えてよい。大切なことは、性の乱れを双方が常に真剣に予防しようとするところにある。
6 人間の腐敗は、神が結婚において合わせられた人々を不当に離すために、論議に苦心しがちなものであるが、姦淫以外の、または教会や国家的為政者によってもどうしても救治できないような故意の遺棄以外のどのような事柄も、結婚の結びを解消することの十分な理由ではない(1)。離婚する場合には、公的な秩序正しい訴訟手続が守られるべきで、当事者たちは自分自身の事件において、自分の意志と判断に任されてはならない(2)。
1 マタイ19:8,9、Ⅰコリント7:15、マタイ19:6
2 申命記24:1-4
六 正当な結婚が正当な理由で解消できる場合は、ただ二つだけである。① 一方の側の不貞 ② 一方の側の不貞が見捨てて、どう手をつくしても、復帰を拒む場合、である。
<結び>
結婚の神聖が口にされても、それが単なる恋愛至上といったロマンチックな感情が先行して論理の通らない場合が多い。ここで告白されている結婚観は、きわめて理詰めでって、先ず人間の地上生活の基本的な道徳として、十戒の中にある意味で不可欠なものである。しかも強制によることではなく、当事者の自由な判断による契約として成立すべきものである。
自由な結婚と言っても、決して享楽中心的な事柄ではない。二人の一致協力による人間本来の使命の遂行としてなされるべきものである。従って。乱れを防ぐためのすべての注意が十分に払われた上でなされなければならない。軽率な結婚は、すでに不倫の素材となる。決してテスト的な気持ちでなされるべきでことではない。また、そんなに難しくて面倒で危険が多い冒険なら止めておくというように、消極的な態度もよくない。使命の達成という大きな決心でなすべきである。そして、一度結婚した以上、自分から解消を考え出すべきではない。何としてでも一致和合していくように努め、祈り、忍び、自分と戦い、相手に奉仕していかなければならない。
また、相手に不倫があり、また見捨てられた場合、どこまでも十分な忍耐ある祈りと手続きとで、問題の正しい解決に当たるべきである。少しでも相手の落ち度を自分の口実に利用するようなところがあってはならない。
事は二人以外に証人のない秘事であるから、良心的ということが根本である。お菓子をつまみ食いして、口をぬぐっておくとしても、現実に一つのお菓子が減っている以上、誰かに疑いがかかる。しかし、淫行は当事者らが隠す場合、証拠は残らない場合が少なくない。近しい者の間では、それが一層隠されやすい。良心と貞操観念のみが防止させるのである。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」