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第76課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・22・・・
B キリスト者の市民的義務・・・8・・・
13:1~2・・・7・・・
「政府の機能と権力」・・3・・
13章3、4節で、パウロは国家は善事をなす者を賞賛し、悪事を行う者を罰するためにあると述べています。「善事をするがよい。そうすれば、彼らから褒められるであろう」12:3b)。ローマ帝国は当時キリスト者を迫害していたのに、パウロは何故このようなことを言うのかといぶかる人々がいます。しかし、その理由は簡単です。パウロが言っているのは、例外的な環境や条件下の政府について述べているのではなく、通常の状態下の政府について語っているからです。
ローマ帝国は常時キリスト者を迫害していたわけではありません。聖書の解釈において、私たちはうっかりすると歴史的、時間的要素を忘れがちです。使徒行伝に描かれている初代教会において、ローマ帝国がキリスト者を保護していた時、キリスト者を迫害したのはユダヤ人たちです。また、エペソにおけるように、異邦人たちがキリスト者に対して迫害を加えることも時折ありました。しかし、記憶しておかなければならないことは、エペソの出来事は政府官憲によって扇動されたものではなくて、私的な妬みによるものであり、ローマ帝国に従う地方官憲によって鎮圧され、秩序が回復されたことです。
パウロは当時の暴動者たちが官憲によって、その騒乱行為について責任を取らなくてはならないとされたことを思い起こしているのです。このように、私たちはエペソの銀細工人たちによって、引き起こされた動乱に際して、ローマ帝国が正義と法と秩序を維持したことを見るのです。パウロのローマ市民権はユダヤ人たちの暴力から彼を再三にわたって保護しているのです。このような初期においては、ローマ帝国は多くの欠陥をもってはいましたが、正義と法と秩序を守る機能を果たしていたのです。
勿論、後になると、大きな変化が起きました。70年(AD)にエルサレムが滅亡すると共に、ユダヤ人たちは舞台から去りました。そしてローマ帝国はキリスト者の迫害計画にのり出してきました。パウロが「善事をするがよい。そうすれば、彼らからほめられるであろう」と言った時、勿論、彼はキリスト者を迫害する政府は一つもないだろうと言っているのではありません。現にパウロは善い事をしたけれども、ローマ帝国によって斬首されているのです。しかし、迫害は結局、例外的なものであって一般論においては、善いことをなし、法を守る者は、国家によって保護されるとういうことは真理なのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」