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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・49・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・16 ホスピスに入院している方から時々「死んだらどうなりますか」と言う質問を受けることがあります。勿論、火葬に付されて墓に入れるという死体の処理のことではありません。
死ぬということは自分の体がなくなることではありますが、体だけが自分ではありませんから体が死ぬことが同時に自分というもののすべて消え去るのか、それとも何らかの形で永続するのか、永続するとすればどういう仕方で永続するのか、という問であります。正直言ってわたくしには「それはこうです」とはっきりした答えを出すことは出来ません。それは死後のことについて、死後状態を知っていない生者が、死後世界のことについて何か言うということ自体が僭越至極であるからです。
ですから、この種の質問に対しては、基本的には「分かりません」としか言えません。質問される方は、わたくしが牧師であることを知っておられて、「牧師なら死後のことについてもちゃんと答えてくれるだろう」と考えられたうえでの質問でしょうが、わたくしが「分かりません」などと言うものですからがっかりされるようですが、しかし生者が、未経験の死後世界のことについて明快な答えを出し得るはずがないし、仮に出したら、そのこと自体がおかしいじゃないかと言うと、大抵は納得されます。しかし「分からない」と言うことは、依然として不安であるわけです。
こういうことに関して言えば、人間はみな死ぬことが定まっているのですから、早くから「死とは何か」とか「死後どうなるのか」など予めきちんと自分なりの答えを出していなくてはならない、と思います。泥縄式の対応や他人からの答えでは必ずしも納得は出来ないのです。とは言うものの、何らかの答えを自分なりに得ないままでは不安ですから、出来るだけその人が自分で答えを見出されるようお手伝いをしているのが現状です。
ただし、この問題は、ことがらの性質上、万人が納得できるような客観的普遍的な答えを出すことは出来ませんので、「自分はこう信じている」と言う答えを持っているかどうかにかかっているように思います。相手がクリスチャンの場合には基本的に話がかみ合う要素をもっていますし、他の宗教などによって、かねてから、自分なりの死後観に立っておられる方には、比較的同一方向についての対話が成り立ちますが、無前提の方とはなかなか同じ方向に向き合えないもどかしさを覚えます。
ホスピスに入院しておられる方から発せられる声には「いずれ死ぬと分かっているのにただ無意味に死を待っているのは苦痛ですから、早く死なせて欲しい」というのがあります。こういう方の本心は生きていたいのです。しかし、生きていることが耐えられない苦痛であるので、それで早く死なせて欲しいというわけです。聖書の中には「死にたいと思っても死ぬことが出来ず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く」という言葉があります(ヨハネ黙示録9:6)。死ねない苦しみというものがあるのです。
「死の世界」というものが考えられるとしたら、どういう世界のことが思い浮かぶでしょうか。先ずは「し~んとしていて、何一つ動くものがない世界」ということが出来るでしょうか。あるいは「時間とか空間とかが関係しない世界」と言ってよいかも知れません。実際死んだ人は、ず~っと静まり返っていて、時間や空間に左右されていません。永久にそれっきりの世界であるといえます。
これに比べると、わたしたちは「生の世界」にいます。私たちが生きている時は絶えず変わって行きますし、空間も変わって行きます。浦島太郎の話は、竜宮城という時間にもこの世という空間にも絶縁していた世界から、時間と空間が変わって止まない世界に帰った時いっぺんにその間の変化分を清算させられたということでしょう。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年1月のラジオ放送予定>
1月 1日 小幡 伸幸 (日本キリスト改革派豊明教会長老)
8日 小幡 伸幸 (日本キリスト改革派豊明教会長老)
15日 青山昭一郎 (日本キリスト改革派犬山教会長老)
22日 青山昭一郎 (日本キリスト改革派犬山教会長老)
29日 長谷川 潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」