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さんびか物語 ・・・34・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・33・・・
ポーリン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌337番
わが生けるは
<神様のみ言葉>
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」。
~ピリピ人への手紙1章21節~
讃美歌337番は、神様に従って生きることの素晴らしさを歌った讃美歌といえるものですが、原作者も、年代も不明であります。一時はアメリカでも歌われたそうですが、今では英語の讃美歌集には見られません。私自身も、英語の言葉を一度も聞いたことはありません。しかし、日本では今日でも“わが生けるは”が歌われていることは、大変うれしいことであります。
337番の曲RIALTOの作曲者は、米国人のジョージ・F・ルート(1820~1895)でした。ルートは、ボストンで音楽を学んだ後、しばらくパリに留学しました。帰国後、19歳で教会のオルガニストや合唱団を指揮者となり、後に、公民学校の教師となりました。1844年にニューヨークユニオン神学校で声楽を教えました。また教会のオルガニストも続けておりました。ルートは再びパリに留学した後、ポピューラーな讃美歌や学校用唱歌をたくさん作曲し、彼の出版した讃美歌集は70種類にもおよびました。1881年には、ルートの功績が認められて、シカゴ大学からDoctor of Musicの学位が贈られました。
今日、ルートの作品は米国では、ほとんど歌われていませんが、以前には、広く愛唱されていました。しかし、日本では明治時代から今日に至るまで、RIALTOはさかんに愛唱されています。
今日の曖昧な信仰の時代に、この歌詞の意味を味わい、熱烈な信仰とかたい決心を学ぶことは必要であります。
<337>
1 わが生けるは 主にこそよれ
死ぬるもわが益 また幸なり。
2 富も知恵も みな主のため
力もくらいも また主のため。
3 迫めも飢えも みな主のため
うれいも悩みも また主のため。
4 主のためには 十字架をとり
よろこび勇みて 我はすすまん。
この讃美歌を十分に理解するためには、はじめの聖書のみ言葉の背景と意味とを知らなければなりません。ギリシャのピリピという町に住んでいたキリスト者に、手紙を送った使徒パウロはなぜ「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と書いたのでしょうか。この偉大な使徒は、一生を、イエス・キリストの福音宣教のために捧げてきました。パウロは「むち打たれことは数えきれず、死に直面したこともしばしばであった・・・、幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難にあい、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(Ⅱコリント11:23,26~27)と言っています。
私たちの想像以上の、耐えられない迫害と苦難を受けていた使徒パウロは、この手紙を書いていたとき、信仰のためにローマの獄に入れられていたのであります。老人のパウロは、間もなく殉教の死をとげなければならない状態にありました。しかし、パウロは弱音など一言も言わず、むしろ、「わたしの身におこったことがむしろ福音の宣教に役立つようになった」と言っております。また、ローマにいたクリスチャンは、パウロの入獄によって「主にある確信を得、恐れることなく、ますます大胆に神の言葉を語るようになった」とピリピ人への手紙1章12~14節に記されています。
パウロの主な目的は、生きるにも、死ぬにもキリストがあがめられることでありました(1:20)。これこそは、すべてのクリスチャンの、目的でなければなりませんし、そうありたいものです。
神の栄光をあらわすこと、永遠に神をよろこぶこと、大胆に福音を語ること・・・。このことが、あなたの生きる目的になっているでしょうか。
2節をもう一度読んでください。
富も知恵も みな主のため
力もくらいも また主のため。
これは不思議な言葉ですね。“富は私たち自身のため”という考えは普通であります。“知恵も自分のため”と言って、知恵を私たちに与えたもうた、唯一の神を認めようともしないのが、現代の姿であります。“力もくらいも、また主のため”とあなたは心から、この歌をうたうことがお出来になりますか。
3節の言葉は、より素直で、私たちの心を本当に貫きます。
迫めも飢えも みな主のため
うれいも悩みも また主のため。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことをはたらかせて益としてくださることを、私たちは知っています」とパウロがローマ人への手紙8章28節で語っております。神様が“迫めも飢えも、うれいも悩みも”益としてくださることを知っていたパウロは、勝利の生活を送ることが出来ました。自分の十字架を負って、喜び勇んで進んで行くことが出来ました。
死を恐れることも、死ぬことも、かえって自分にとっては益であると確信をもって告白しているのであります。それは、この人生が耐えられなくなったとか、うれい、悩み、迫めなどが死によって終わるとか、死ぬことによって、逃れることが出来ると考えたからではありません。
パウロには、死ぬことによって、神のみ前に立ち「キリストのはかりがたい富」(エペソ3:8)を受け、永遠に神のみ国で神を讃美することが出来るからにほかなりませんでした。あなたも、このような、かたい信仰を持っていただきたいと思います。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」