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解説 ウエストミンスター信仰告白 (53)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第25章 教会について・・1・・
1 公同または普遍の教会は、見えない教会であり、そのかしらなるキリストのもとに、過去・現在・未来を通じてひとつに集められる選民の全員から成る。それは、すべてのものをすべてのもののうちに満たしているかたの配偶者、からだ、また満ちみちているものである(1)。
1 エペソ1:10,22,23、エペソ5:23,27,32、コロサイ1:18
一 公同教会の別名はユニバーサル・チャーチである。普通は、ユニバースは広さにおいて普遍的という意味に考えられているけれども、ここでは、時間的にも古今を貫く意味を持ち、古今東西にわたる普遍性の意味である。教会はキリストを含むものではないし、キリストを離れてはありえない。
キリストは教会の一部を構成しているのではなく、キリストは教会のかしら、教会はキリストのからだである。教会は自己完結的なものではなくキリストに接ぎ木され、キリストに統一されて存在するものである。
キリスト者が一人でありえないのは、一方、キリストとともにあらねばならないばかりでなく、他方選ばれた者全体との有機的統一的結合においてのみありうるからである。見えない教会という名称は、一つには、それが普遍的であるという意味であり、他方には、選びという目に見えない事柄のうちに成立しているからである。「すべてのものを、すべてのものによって満たすかた」とは、エペソ人への手紙1章23節の言葉であるが、神が満ちるとは、神の恵みが豊富にあること、賜物が豊かに与えられていることと理解することができる。
2 見える教会は、(律法のもとにあった先の日のように、ひとつの民族に限られないで)聖日のもとでは、やはり公同または普遍の教会であり、全世界にわたって、真の宗教を告白するすべての者と(1)、その子(2)らとから成る。それは、主イエス・キリストのみ国(3)、神の家また家族(4)であり、そのそとには救いの通例の可能性はない(5)。
1 Ⅰコリント1:2、Ⅰコリント12:12,13、詩2:8、黙示7:9、ロマ15:9-12
2 Ⅰコリント7:14、行伝2:39、エゼキエル16:20,21、ロマ11:16、創世3:15、創世17:7
3 マタイ13:47、イザヤ9:7(6)
4 エペソ2:19、エペソ3:15
5 行伝2:47
二 ここでは、二つの単語について注意が必要である。第一は「福音のもと」と、「律法のもと」という言葉であるが、これは、旧約時代と新約時代と言われているものである(第7章「人間と神の契約について」参照)。第二は、ここでの公同的は、世界的と言い換えられている。原語は、「一項と同じユニバーサル」である。しかし、過去、現在という時間的普遍性の方面は言及されていない。5項で、この「見える教会」が断絶しない点が明言されているから、その面を否定してはいないけれども、ここでは主として、律法時代には一国民のユダヤ人に限定されていたことに対比しての世界的(国際的)の意味を持つように思える。
なお、この「見える教会」は旧約時代にも存在していた。すなわち、旧約時代のイスラエルは「見える教会」の旧約的姿であったとする点と、信者の子女も会員であると認めることは、バプテスト派などに対する改革派教会・長老教会との相違点である。また、この「見える教会」に属さない場合、普通には救われないと考えることも、アナ・バプテスト派などと異なる主張である。
ローマ・カトリック教会の「教会の外に救いなし」は、ローマ・カトリック教会、すなわち、神の国という主張であるが、改革派教会がここで言うのは、聖霊の救う働きは聖書と礼典という恵みの手段を用いてなされる、という点に関係している。
なお、新約聖書の中で使用されている教会に対するいろいろな比喩的名称のうち、配偶者(妻)、または、からだ、というように、キリストとの神秘的結合を中心に考えられているのは「見えない教会」にあたり、国家とか、家族というように組織体としての面を指示している場合には「見える教会」への名称として認めることは、非常に重要な区別の原則である。
3 キリストは、世の終りまで、この世にある聖徒らを集めまた全うするために、この公同の見える教会に、教役者とみ言葉と諸規定とを与えられ、また約束に従って、ご自身の臨在とみたまとによって、それらをその目的のために効果あるものとされる(1)。
1 Ⅰコリント12:28、エペソ4:11-13、マタイ28:19,20、イザヤ59:21
三 「・・・聖徒らを集めまた全うするために」とは、選んだ者を召し、召した者を義とし、義とした者に栄光を与えることを意味している。これは「見えない教会」、すなわち、キリストのからだをたてることであるが、それを達成する手段として「見える教会」が役立つのであって、「見える教会」が、この本来の奉仕を有効に達成するために、主は教職と聖書と礼典とを与えてくださったのである。
「諸規定」とあるのは、宗儀とも訳される言葉であるが、それは、礼典のみでなく、見える制度としての教会がかならず守るべき秩序一般を含むもので、無教会主義的な考え方を排除するものである。キリストご自身が「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されたとともに「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主(聖霊)を送って・・・」(ヨハネ4:16~18)とも約束された。
キリストの臨在は、聖霊における臨在であると同時に、神性におけるキリストご自身の臨在でもある。み言葉も礼典も、すべてはこのキリストが用いられる手段となるとき初めて有効なのである。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」