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世田谷通信(160)
猫草
ただいま倫理政経を勉強中の長男と「生存権」について話をする機会があった。現在日本国憲法で保障される社会権の一つとしての「生存権」は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」と定義づけられている。でも生存権というと一般的にはちょっとニュアンスが異なるものを思い浮かべないだろうか。つまり、今ここに生存していることを「善」とする根拠を問う「生存権」である。
我々の生存権は基本的に保障されている一方、突如脅かされる危険性もはらんでいる。安穏とした日常が昨日も今日も続く前提で人は予定をたて、約束を交わし、来年の手帳やカレンダーを用意するのだ。だが予測不可能な故意・偶発、様々な理不尽な事由により突然その生活が一変する事態は日々世界のどこかで起きている。それはニュースの向こう側の他人事ではなく、明日は我が身に起きるかもしれない。漠然と不安を感じてはいる、でも切迫感はない。
そう、特に根拠はないが、そのような「災厄」に見舞われない限り生存を保障されていると信じている自分が居るのだ。しかしここで一つの疑問がわく。生存権とは誰に対して主張しているのか。それが自分以外の他者に対してであれば、他者の生存権と自身のそれが拮抗したときどのように折り合いをつけるのかという事由となる、これは通常の「生存権」の概念の範疇である。自分と他者の「生存権」は、互いの権利・なわばりが侵害されない距離まで移動するか境界線や共存ルールを定めることによって多くの問題は解消されうる。
この場合自分と他者はお互い平等という前提がある。しかし仮に下位の、いや下位と信じていたものから、その生存権を主張されたらどうなるだろう?少し想像してみる。自分が生物学者だとして、生殺与奪の権利を掌握し日々実験しているシャーレの中の「菌」がある日叫んだら?「これまで人類により大量虐殺を繰り返されてきたが、このような不当な扱いにはもう耐えられない。我々はその生存権をかけて戦う」と言ってきたら?菌、いわゆるモネラ界は人類の知覚を超えた全ての世界で、数・多様性・耐性・性質、あらゆる面で人類を凌駕する「圧倒的存在」である。その宣告に対しヒトなどなすすべがない。
遙か高みより守られていると信ずればこそ成立する「生存権」だが、大きな生態系の輪の一括りの中にあることも覚えていなくては、と時に思う。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」