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第76課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・23・・・
B キリスト者の市民的義務・・・9・・・
13:1~2・・・8・・・
「政府の機能と権力」・・4・・
パウロはまた、為政者には悪を制し、悪人を罰するために、権力を行使する権威があるとも教えています。「彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである」(4節)。「剣を帯びる」ということは、権威、警察権、裁判権を意味します。正義の維持のためのすべての刑罰を意味します。もし国家が殺人者に死刑をもって罰すべき権威を神から与えられているとすれば、強盗や偽証や放火などに対して、罰金や懲役をもって罰する権威をも所有しているのです。
今日、死刑について感情的な反対論があります。多くの人々が宗教的人道主義的論拠から、これに反対します。しかし、殺人者に対する死刑は、旧約においても新約においても認められていることを覚えなければなりません。聖書は殺人者に対する死刑を認めているばかりでなく、それを要求しているのです。いかなる政府といえども、神のみ言葉の要求を変更する自由を持っていないのです。宗教的根拠から死刑に反対する人々は、明らかに罪の恐るべき実在性と神の聖と義を考慮していないのです。単なる情緒的な宗教観しか持っていないと言えます。
私たちが今考えている聖句は、また、平和主義に対しても意義を持っています。国際間の問題について軍事力を行使することは常に悪であると主張する人々は、この問題についての聖書の教えをよく理解していないと言わなければなりません。もし為政者が「いたずらに剣を帯びているのではない」のであれば、必要な時には、悪に対して力を行使する権威を与えられているのです。しかし、国内における核を抑制するために力を用いることと、国際間の悪を抑制するためにそうすることとの間に、原則的には区別はありません。
拳銃を発射しながら逮捕に抵抗する殺人者に対して、警察官が正当防衛のため射撃することが正しいと同様に、国家が外敵に対して自己を防衛するために、軍事力を使用することは正しい。すべての国際問題は軍事力の行使なしに解決できるとする考えは、人間の心の邪悪と罪の本質とを、聖書が教えているように理解していないものと言えます。
ここで注意すべきことは、私たちは力の行使については、あくまで慎重でなくてはならないし、自分だけが正しいとする偏見を厳しく排除しなければなりません。戦力の行使についても同様です。これは決して単純な問題ではなく、安易な決定を下してはならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」