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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・50・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・17 わたしたちが生きているということは、絶えず変化しているということです。血液は絶えず流れております。細胞の死と増殖活動は休むことなく続けられています。昨日までの自分と今日の自分とは変わっているのです。今日生きている自分は昨日まで生きていた自分とは違っているのです。その違いについてのこの世での評価に正負があっても、変わり続けていることは事実です。言い方を換えれば、昨日の自分は死んで、一夜の眠りのあと新しい自分になっているのです。
ただし、以上のことを認めない人もいます。明日までの自分をいつまでも引きずったまま今日を迎える人です。相変わらずの自我によって生きる人、背負い込んでいる荷物を一切降ろそうとしない人、過去の栄光だけを頼りに生きている人です。こういう人にとっては、今日という日は旧態依然であって、新しくも何ともないことでしょう。
人間誰しも死ぬことを好んではおりませんが、しかし、以上述べたことから言うと、人間誰しも死ぬべき死を死ななければ、新しい自己は生まれて来ないのです。その意味で、パウロが「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされて生きます」(コリントの信徒への手紙2・4:16)と言っていることがよく理解できるのではないかと思います。
病院では4の発音は死に繋がるという理由で、4号室という室番号を付けていないところが多いようです。しかし、前述したように日々に古い自分は死ななければ新しい自己の誕生はあり得ないという理由から言えば、むしろ日々に古い自分に死んで別れを告げなくてはならない、ということも出来ます。むしろ「死ぬことは益である」(フィリピの信徒への手紙1:21)ということができます。
となれば、逆に「死なない自分であること」「いつまでも今のままで生きている自分」であることが問題となります。
「あの子、生きているのか死んでいるのか分からない」という嘆きの声を聞くことがあります。音信不通で、消息を得たいと思っても手がかりが掴めない時に、そういう声が発せられます。更には「あいつはもう死んだ」ということがあります。体は生きていても、自分の方から関係を断ち切って、二度と関係の修復が望めない場合です。前にも触れましたが「死」とは関係の断絶を意味するからです。パウロは「罪が支払う報酬は死です」と言いますが(ローマの信徒への手紙6:23)、それは、本来信頼関係にあるべき者が、その信頼関係に生きるべきことを無視して、自分だけで生き始めるという見当違いを犯すなら、その途端に関係が断絶するという意味での「死」を問題しているからです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年2月のラジオ放送予定>
2月 5日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
12日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
19日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
26日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」