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解説 ウエストミンスター信仰告白 (54)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第25章 教会について・・2・・・
4 公同教会は、時によってよく見え、時によってあまり見えないことがあった(1)。またその肢体である個々の教会は、そこで福音の教理が教えられ奉じられ、諸規定が執行され、公的礼拝が行なわれている純粋さに従って、その純粋さに相違がある(2)。
1 ロマ11:3,4、黙示12:6,14
2 黙示2,3章、Ⅰコリント5:6,7
四 「見える公同教会」の公同性は「見えない公同教会」の公同性と本質的に同一である。従って、この公同性の濃淡からいって公同教会の可見性の程度ということが言える。この項では「公同教会は」となっている点に、まず留意しなければならない。つまり、ここでは「見えない」とか「見える」とかの区別ではなく、「公同教会」が問題となっているのである。
このことは、「見えない公同教会」「見える公同教会」という、まったく別種の二個の公同教会が存在すると考えることを許さない。「公同教会」は「見える」にしろ「見えない」にしろ、本来、唯一の公同教会なのである。従って、個々の教会は、単に「見える教会」の肢体であるばかりでなく、同時に、「見えない公同教会」の肢体でもある。それでより見えるとか、より見えない、という程度の問題と、この個々の教会の純正の度合いということも深く関係している。教会は、個人の敬虔の問題としてではなく、根本的に集団的な宗教行為の問題として、この純正の度合いが考えられている。
もちろん、いかに時間が厳守され、礼拝中の秩序が一糸乱れず整然となされても、その礼拝者一人一人の信仰的内容・信仰態度が、福音の精神を知らず、異教的敬虔でしかないならば、その教会の公同礼拝は、きわめて純度の低いものと判断されなければならない。ローマ・カトリック教会のミサが、その代表的な場合である。わたしたちの教会の礼拝も、どこまでもそういう意味での内容が重大視されなければならない。
5 世にある最も純粋な教会も、混入物と誤りとをまぬがれない(1)。そしてある教会は、キリストの教会でなくサタンの会堂になるほどに堕落した(2)。それにもかかわらず、地上には、み旨に従って神を礼拝する教会が、いつでも存在する(3)。
1 Ⅰコリント13:12、黙示2,3章、マタ13:24-30,47
2 黙示18:2、ロマ11:18-22
3 マタイ16:18、詩72:17、詩102:28(29)、マタイ28:19,20
五 個人のキリスト者の場合も同様に、教会としても地上では、完全なものはない。また、偽信者があるように、偽教会もあり、堕落教会もある。しかし、教会が全滅した時代はいまだかつてなかった。エリヤの危機にも7千人のイスラエル人があった。「会堂」はシナゴグの訳で、外見だけが教会の姿をしている、という意味である。
6 主イエス・キリストのほかに、教会のかしらはない。どのような意味ででもローマ教皇は教会のかしらではない(1)。その反対に彼こそは教会においてキリストとすべて神と呼ばれるものとに反抗して自分を高くするところの、かの非キリスト、不法の者、滅びの子である(2)。
1 コロサイ1:18、エペソ1:22
2 マタイ23:8-10、Ⅱテサロニケ2:3,4,8,9、黙示13:6
六 一項で告白したように、教会は、ただ主イエス以外のいかなるかしらも持たない、ということが特色である。キリストのからだがあるのに、からだ自身に一つのかしらを持つとしたらどうであろうか。法王に対する名称を、聖書の黙示文学的名称を以ってすることは、一種の黙示録註解の手法を受け入れたものと誤解される恐れがある。アンチ・キリストが法王の予言であるかどうかは、別のことである。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」