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小閑記
わたしはあなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
~黙示録3:8~
神様が私たちのために扉を開かれると、誰もそれを閉じることはできません。しかし、もし神様がお閉めになると、すべては取り返しがつきません。どのようにたたいて「主よ、わたしたちを入れてください」と叫んでも、扉は決して開かれません。神ご自身がそのように言われたのです。
まだ神の国の外側に立っている者は、この事をよく考えていただきたいと思います。まだ時を償うことができはしないかと思うのです。確かなことは、扉はまだ大きく開かれ、私たちはまだ恵みの時の中に生きているのです。しかし、「まだ余地がある」神の開かれた扉の外に立っているのは、私たちの心の扉が閉ざされているからなのです。この閉ざされた扉を神様はたたかれます。
もし私たちが心の扉を開ければ、主はお入りになります。しかし、開けなければ、何時かは神様の扉が閉ざされているのを見るでしょう。神様がお開きになっている間に、捜し求めない者は、ついに神様にお目にかかることがないでしょう。
しかし、開かれている扉についての言葉は、主として、弱さと貧しさのただ中にあって、神様のみ言葉に信頼するキリスト者に向かって言われております。それは、イエスのみ名によって、力のない者に力を与え、貧しい者に良いもので満たすと約束をして下さる言葉だからです。
自分の惨めさを知り、自分のものは信じられないほど小さく思えるとき、神様の開けて下さっている扉をしっかりと覚えるべきです。神様は決して、苦しんでいる者に対して、扉をお閉じにはなりません。
私たちの前には、輝ける主イエス・キリストの十字架の救いの扉は開かれているのです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」