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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・51・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・
答・・18 わたしたちが「死」を恐れるのは、死によって自分が失われ、自分がなくなってしまうと思うからです。死んでも失われない何かに継がれることが信じられれば、その失われない何かに託して死ぬことが出来るかもしれません。太平洋戦争において、若い学徒たちは戦場に駆り出され、自分の死を「悠久の大義に生きる」ことに位置付けて死んでいきました。「悠久」とは「変わりなく続く」ことであり、「大義」とは「究極の関係に生かすもの」のことと言ってよいでしょう。
とにかく、そういうものに継がれることを信じることが出来なければ、自分の死はそれっきりで無に帰するしかないし、それではたまらないと思ったからでしょう。彼らだけでなく人はすべて死に対するなんらかの意義付けをしなくては死にきれないのではないかと思います。ただ、その場合、そのようにして意義付けをする自分が、どれほど確かな存在であるかという問題は依然として残ります。
話が一足飛びにイエス・キリストの場合に移りますが、キリストは、十字架につけられて死ぬ直前「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。「わが神」というのは、自分にとって究極の存在であり、自分を超えて自分を位置づけ、意義あらしめるものです。そういう神から見捨てられるということは、自分というものの存在の一切の基盤を奪われることであり、耐え難いことです。
「悠久の大義」についても、それが虚構であり幻想でしかないと分かったからなら、死ぬにも死ねないということになるでしょう。一人相撲を取っているに過ぎないことが分かることも、辛く耐え難いことですが、究極の拠り所としている相手から見捨てられるということは、絶望以外の何ものでもありません。親しい関係にあった人から見捨てられるようなことがあれば「どうして?」と問いかけます。それに対して答がなかったらどんなに辛いことでしょう。しかし、わたしたちは生まれて以来「わが神」と言えるような、神様との親しい関係の中に生きて来ていません。ですから、「神に見捨てられた」という関係の断絶事態は、体験のしようもありません。
旧約聖書に中には、「死んだ」ことを「眠りについた」という表現で言い表していることがしばしばあります。考えてみれば、眠りから覚めるのが生きている証拠でありますから、眠ったまま覚めないことは死んだことになるわけです。そういう意味において「永眠」とは良く言ったものだと思います。では死んだあとはどうなるかというと、これについて何かを述べていることはほとんどないようです。それは当然のことです。ただし死後のことについての信仰や希望を語っている人はいます。
例えば詩編23編の記者は次のように言っています。
「主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいて下さる」。この人は、死後どうなって行くであろうかなどの推測はしていません。また、ヨブは次のように告白しています(ヨブ記19:25~26)。
「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう」。
ヨブの場合も、死後の自分がどうなるかについての詳細は語っておりません。ただ確実なこととして言っていることは、自分が死んだ後も、仰ぎ見ることができる神様は生きておられるということであって、これは信仰によってのことです。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」とヘブライ人への手紙の著者が述べているのは、以上のような人たちのことを総括してのことでありまして、死後の状況についての説明はしていません(11:23)。そういうことから言って、「死んだらどうなりますか」という問いに対しては、「神様がずっとついていてくださいます」という信仰に基づく答えをすれば良いし、それに尽きると思います。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年3月のラジオ放送予定>
3月 5日 田口博之 (日本基督教団名古屋教会牧師)
12日 田口博之 (日本基督教団名古屋教会牧師)
19日 高橋 潤 (日本基督教団中京教会牧師)
26日 高橋 潤 (日本基督教団中京教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」