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さんびか物語 ・・・36・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・35・・・
ポーリン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌352番
あめなるよろこび
<神様のみ言葉>
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主に働きによるのです」。
~コリント人への手紙第、3章17~18節~
讃美歌352番、‟あめなるとろこび”の作者チャールズ・ウェスレーはアイザック・ウオッツと肩を並べる最高峰に位する詩人であります。チャールズとこの兄のジョンは、オックスフォード大学で教育を受けていた間、同級生の霊的生活の乏しさに不満を感じ、神様を中心にした「聖なる会」をもうけました。この会のメンバーの厳しいルールやきちんとしたことの弁別によって「メソジスト」というあだ名がつけられました。その後、イギリスを中心に広まったメソジスト運動は、ここから始まったと言ってもよいでしょう。
チャールズは一生の間、父サムエル・ウェスレーと同じように、国教会の聖職としての任務を果たしましたが、同時に、メソジスト運動の創設者であった兄のジョンと一緒に、イギリスの信仰復興のために、大いに活躍いたしました。
チャールズ・ウェスレーにつきましては、この讃美歌62番をご参考になさってください。
チャールズ・ウェスレーは、全部で6500以上の讃美歌を作曲いたしましたが、その中でもクリスマスに歌われる‟あめにはさかえ”(98番)、‟わがたまたましいを愛するイエスよ”(273番)とこの‟あめなるとろこび”(352番)の三つは、最高中の傑作と言われています。
讃美歌‟あめなるとろこび、こよなき愛を”は、1747年にJesaus Show
us Thy Salvation(イエスよ、あなたの救いを私たちに表わし給え)という題のもとに初めて発表されました。
当時のイギリスの道徳的な水準は、今日の世界と同じように低下し乱れていまして、社会的にも、個人的にも、霊的にも下降の道に向かっていました。このような時代に主イエス・キリストとその十字架による救いを中心にしたウェスレー兄弟の伝道によって、多くの人々が神様のみ前に新しく生まれかえさせられました。今日も、このようなリバイバルがあることを信じて、お互いに熱心に祈るべきであると思います。多くの人々に、自分の罪を神様のみ前に認め、悔い改めて救われた者の喜びを味わい知る日が一日も早く来ることを切望いたします。
この讃美歌の曲BEECHER (別名LOVE DIVINE ZUNDEL)は、歌詞の出版の123年後の1870年に発表されたものであります。
作曲者ジョン・ザンデルは、1815年12月10日ドイツのホックドルフに生まれました。彼はまず聖ペテルスブルグ(今のレニンゴラード)で聖アン・ルスラン教会のオルガニストならびに、近衛騎兵連隊の楽長をつとめていました。彼は1847年にニューヨークに移って、30年間アメリカで教会のオルガニストとして素晴らしい奉仕をしていました。彼は主にブルックリンにあるプリマス教会での奉仕でしたが、この教会の牧師は有名なヘンリ・ウォード・ビーチャーでした。ビーチャーは当時の牧師でリンカーン大統領の知人であり、奴隷廃止論者でした。彼の説教とザンデルのオルガンの評判は、あまりにも広まっていたために、大勢の人々が日曜日ごとにプリマス教会に集まってきました。
ビーチャーと聖歌隊の指揮者であったジョンズとザンデルが協力して、1851年に‟テンプルメロデー”という讃美歌集を発表しましたが、ビーチャーは、それでは満足しなかったので、改めて、1855年に‟プリマスコレクション”という讃美歌集を出版しました。ザンデルも協力して彼自身の曲を28ほどここに収めています。その上ザンデルは、自分で讃美歌集を3巻発表しました。この曲BEECHERは1870年に発表した‟クリスチャン ハート ソングス”に収められていたものです。ザンデルは引退してから故郷に帰り、1882年に亡くなりました。
<352>
1 あめなるよろこび こよなき愛を
たずさえくだれる わが君イエスよ
すくいのめぐみを あらわにしめし
いやしきこの身に やどらせたまえ。
1節で作者は‟わが君イエスよ、あめなるよろこび、こよなき愛をたずさえて、今一度くだり給うように”と歌っています。原作では、この切なる願いをいくつかの動詞をもって表現していますが、日本語訳では‟くだってください” ‟救いの恵みをあらわに示してください”また、‟いやしいこの身に宿ってください”と歌っています。
なぜ、このようにキリストのおいでになることを願っているのでしょうか。なぜこれが必要なのでしょうか。それは、私たちがほんとうに卑しい者、汚れた者だからです。また、キリストがみ霊なる神様が私たちの心に宿ってくださらないなら、霊的な進歩・発達はできないからであります。パウロはコリント人への手紙第一、6章19節で「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり…」と言い、成長させて下さるのは神なのです」(Ⅰコリント3:7)と言っています。この聖句にも示されていますように、主イエス・キリストへの信仰とみ霊が私たちの心に宿るように絶えず祈ることが大切であります。原作の2節ですが日本語訳では省略されています。この2節で作者は、‟主よ、私たちの悩んでいる心に、あなたの霊を吹き込んでください。どうか私たち一人一人があなたの相続人となり、あなたが約束された安息に入れてください“と歌われています。では、この‟安息”とはどのような安息でしょうか。それは、ヘブライ人への手紙4章11節に記されているような安息を意味するでしょう。すなわち、「私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者がひとりもないようにしようではありませんか」という力強い言葉をもって、ヘブライ人への手紙の著者は、私たちを励ましてくださいます。また、原作の2節の終わりで作者は、今一つの大切なことを歌っています。それは罪を犯そうとする私たちの傾向・性質を取り除いて、私たちのアルファとオメガになってください、ということであります。
このアルファ、オメガは、最初と最後を意味する言葉で、ヨハネの黙示録21章5節~6節には「御座に着いておられる方が言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる』」と言われています。
このアルファでありオメガであられる、まことの神様を己が神とするその人のみが、罪に打ち勝つことができるのであります。神様への信仰を、私たちの生活の‟初めと終わり”にすることは、どんなにか素晴らしいことでしょう。
2 いのちをあたうる 主よ、とどまりて
われらのこころを とこ宮となし
あしたにゆうべに いのりをささげ
たたえのうたをば うたわせたまえ。
2節(原作は3節)では、いのちを与え給う主を、ほめたたえています。もちろん、ここで意味する‟いのち”は、まことのいのち―永遠のいのち―であります。主イエスご自身のお言葉によりますと「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ10:10)。主イエス・キリストが私たちにとどまりますなら、私たちは豊かにいのちを持つことができます。そして、その豊かに持っている証拠が、神様を心から賛美することができるという事実のうちにみることができます。何と感謝でありましょうか。
3 われらをあらたに つくりきよめて
さかえにさかえを いや増しくわえ
みくににのぼりて みまえに伏す日
みかおのひかりを 映させたまえ。
3節でウェスレーが心から歌っているのは、主が私たちをあらたに造り潔めて下さるということであります。昔、主イエス・キリストがユダヤ人の指導者であったニコデモにお語りになったように「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)。私たちも、あらたに造りきよめていただかなければ、み国に登ことも、神様のみ前に伏す日も迎えることはできません。
この讃美歌で歌っています‟さかえにさかえをいや増しくわえ”とか‟みかおのひかりを映させたまえ”という祝福を体験するためには、まず主イエス・キリストを信じる信仰による、また、神様を父とする新しい出生を経験することであります。
私たちは、お互いにキリストにある救いとみ霊の潔めと力を受けて、神様のみ前に伏すその素晴らしい日を目ざして前進いたしましょう。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」