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解説 ウエストミンスター信仰告白 (55)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第26章 聖徒の交わり
1 みたまにより、また信仰によってかしらなるキリストに結合されているすべての聖徒は、イエス・キリストの恵み・苦しみ・死・復活・また栄光において彼との交わりにあずかる(1)。また彼らは、愛において互いに結合されて、相互の賜物と恵みをわかち合い(2)、また内なる人においても外なる人においても共に相互の益に貢献するような彼らの公私の義務の実行を義務付けられる(3)。
1 Ⅰヨハネ1:3、エペソ3:16-19、ヨハネ1:16、エペソ2:5,6、ピリピ3:10、ロマ6:5,6、Ⅱテモテ2:12
2 エペソ4:15,16、Ⅰコリント12:7、Ⅰコリント3:21-23、コロサイ2:19
3 Ⅰテサロニケ5:11,14、ロマ1:11,12,14、Ⅰヨハネ3:16-18、ガラテヤ6:10
一 教会と聖徒の交わりは、同一事の両面であるという理解にたって「教会すなわち聖徒の交わり」と使徒信条を読むことが主張されてきた。ローマ・カトリック教会などが、この二つを別のこととして、後者を「聖徒の交通」と訳して、死んだ聖徒との霊的交わりの意味と理解する誤りを排除しようとするもので、本信仰告白では、両者を区別している。しかし、決して別のことと認めているのではなく、教会におけるキリストと信徒との縦の交わりに対して、キリストにある信徒相互の横の交わりを主として意味していると理解するのである。キリスト者の主イエス・キリストとの結合を、聖霊と信仰と表明している点は、ウエストミンスター大・小教理問答の教えを総合調和しているとも言える。この縦の生命的結合こそ相互間の交わりの根源である。主の晩餐の礼典が、やはり「それはイエス・キリストの神秘体の肢としての信徒相互の結合の象徴である」(ベルコフ著・大山忠一訳「改革派神学通論」)とも言っている。 愛と奉仕は、神とキリストへの感謝・献身であるが、実際にはこの相互の建徳と助け合いという形をとるのである。ここに、教会の意義の最も重大な点が存在するのである。
2 信仰告白をした聖徒らは、神礼拝、またその他彼ら相互の建徳に資するような霊的奉仕の実行(1)、更にまた彼らのそれぞれの能力と必要とに応じて外的な事柄においても互いに助け合うことにおいて、聖なる交誼と交わりとを保たなければならない。この交わりは、神が機会を供えてくださるままに、主イエスのみ名を呼ぶ至る所のすべての人々に広げられなければならない(2)。
1 ヘブル10:24,25、行伝2:42,46、イザヤ2:3、Ⅰコリント11:20
2 行伝2:44,45、Ⅰヨハネ3:17、Ⅱコリント8,9章、行伝11:29,30
二 教派の分立が、この意味の教会の公同性を阻害してはいけない。今日流行のエキュメニスム(合同主義)は、教派主義の一つの弊害を過大視しているようである。主の晩餐の参加資格や転入会の取り扱いについても、この点もう少し寛大が望ましいと思う。しかし、その教派が果たして、基本的信条を受け入ているか、否かは、さらに根本的な問題であろう。
3 聖徒らがキリストともつこの交わりは、どのような意味ででもキリストの神性の本質にあずからせず、またどのような点でもキリストと等しくならせるものではない。そのどちらを主張しても不敬けんであり冒とくである(1)。また聖徒としての彼ら相互の交わりは、おのおのが自分の財産や所有に対してもっている権利すなわち所有権を奪ったり侵害するものではない(2)。
1 コロサイ1:18,19、Ⅰコリント8:6、イザヤ42:8、Ⅰテモテ6:15,16、詩45:8(7)、ヘブル1:8,9(*)
*詩45:8(7)をヘブル1:8,9と比較
2 出エジプト20:15、エペソ4:28、行伝5:4
三 ウエストミンスター信条は全体に積極的告白であるが、ここには、他の少数の例外と共に、否定的な要素が記されている。一つは、キリストとキリスト者との絶対的性質的相違の主張であり、他は、私有財産制の肯定である。キリストは「人の中の最大の人」でなく、キリスト者は「小キリスト」ではない。キリストの神性に信徒が関与するのではない。キリストと神との同質性とキリストの人性とわたしたちの性質との同質性が根元的である。
私有財産制は、教会の歴史上、決してひと時も否定されなかったことは、使徒行伝5章4節を見るとよく理解できるところである。共産制度や独裁制の行き過ぎに対する聖書的歯止めとしてこの告白文は重要性を持つのではないだろうか。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」