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小閑記
神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい。
~コリント第二 5章20節~
救われるためには、用意されてるキリストによる救いが、私たちに伝達され、届けられなければなりません。私たちの外側に、神様によって用意されている救いがあるということだけでは十分ではありません。私たちはそれを自分のものとして、受け入れなければ何の意味もありません。キリストの十字架の贖いは、私たちの救いのためには十分であることは確かで、キリストの死によって、神と和解したのです。
しかし、和解を許されている私たちは、まず、自分自身を和解された者にしなければなりません。それは、私たちがキリストの身元に行き、主イエスによって用意された救いを受けなければならない、ということであります。
もし、それをしたくないならば、決して救いの恵みに与れないでしょう。そのような私たちに神様が愛をもってみ言葉を送り、証し人を送って、キリストの身元に来なさいと言われるのです。主イエスは私たちの負債と言う罪と咎の証文を取り、主ご自身の血で、「支払い済み」の印を、神の聖所で押してくださいました。同時に、私たち自身の心に持っている帳簿に「支払い済み」と主イエスに書いていただかなければなりません。そして信仰によって、神様の潔めの恵みをいただかなければなりません。
失われた人間、罪人として、キリストに行かず、キリストの死は自分自身に責任があると認めない者は、裁かれます。
私たちはキリストを受け入れる尊い、しかも大切な責任があるのです。この責任をキリスト者は感謝して果たしてまいりましょう。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」