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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・52・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・
答・・19 この点について、遠藤周作の夫人順子さんは「夫の宿題」という手記のなかで、「夫は手術室へ入って行く時、それまで付き添っていたわたくしも、そこへは入って行くことができなかった。しかし、そこから先はあの方がついて行ってくださるのだ、と思った」という旨のことを書いておられました。以上のことから言って、死後はどうなるかということよりも、生きている今も、死ぬ時も、死の彼方にも、神は共にいて下さるという信仰をもって生きることの方が大切なことではないかと思います。
一般的に言ってわたしたちの多くは神についてなにがしかの思いを抱いております。しかし、それは、こちらからの一方的な理解であり、畏怖の対象ではあっても、「オヤジに叱られるのは怖い」という場合のように、神との人格的関係があってのことではありません。ですから、何か身辺に悪いことが起こると「神様のバチが当たった」みたいなことを言いますが、直接「お前に罰を与える」と言われるのを聞いているわけではありません。ですから「神様に見捨てられた」と言うことがあったとしても、自分でそう思っているだけのことであって、はっきりと「見捨てられた」と言えるほどの、人格的な親しい交わりがあったわけではありません。すべては、神様抜きで、人間の側で考えたり決めつけているに過ぎません。想念としての神以上ではないのです。
そういう事情の中でしかないものですから、キリストが十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ばれたことに対しても、「ああいう苦しい状況に置かれたら、誰だって神様に見放されたと言いたくもなるよ」という受け止め方で終わってしまいそうです。所詮、見物人の所感です。
しかし、キリストの場合は、神の子として、この地上の世にありながら、地上を超えた天におられる父である神との人格的な交わりを常に持っておられたのでありまして(―そこはわたしたちの預かり得ないところですが―)その父である神から見捨てられる筈などあり得なかったのですが、それが十字架の上で見捨てられたのですから、「どうして・・・」と問わずにおれなかったのだ、と言えます。
例えば親密な関係にある一人が瀕死の状態にあれば他の一人は最期まで看取ることでしょう。それが、これからが本当に看取ってほしいと願っている時に、突如、その相手が、「もうあなたのことなんか知らんよ」と言って立ち去って行こうものなら、「どうして?」と言わずにおれないでしょう。しかも、その問いに対して全く応答のないまま死ななければならないとしたら、耐えられない絶望のまま死んで行くかありません。キリストの叫びは正にそういう叫びでした。
聖書記者の一人は、キリストは、最後に「成し遂げられた」と言って息を引き取られたと告げています。「すべては終わった」とも訳せます(ヨハネによる福音書19章30節)。これから先はわたくしの解釈が入りますが、キリストが「すべてが終わった」と言われたのは最終的には父である神から見捨てられたということの中に、ご自分がこの世に父である神からこの世に遣わされた役目があったことが、腹の底から分かった。だから「成し遂げられた」と言われたのではないかと思います。
言い換えると、「見捨てられた」ということがなかったなら「すべては終わった」と言うことができなかった、ということになります。では、そこで「成し遂げられた」のは何についてであったかが問題となります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年4月のラジオ放送予定>
4月 2日 後登雅博 (日本キリスト改革派高蔵寺教会牧師)
9日 後登雅博 (日本キリスト改革派高蔵寺教会牧師)
16日 辻 幸宏 (日本キリスト改革派大垣教会牧師)
23日 辻 幸宏 (日本キリスト改革派大垣教会牧師)
30日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」