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第78課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・26・・・
B キリスト者の市民的義務・・・12・・・
13:1~7・・・11・
「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・3・・
「だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの仕事に携わっているのである」。(5~7節)
「彼らは神に仕える者として、もっぱらこの勤めに携わっているのである」(6節)。
ここで国家及び為政者たちは正当な機能を忠実に果たすことにおいて、神に仕えるのです。国家は彼ら為政者たちのためにあるのではなく、また政府も国家のためにあるのではありません。両者とも神のために存在するのです。この事は肝に銘じておく必要があります。
数多くの全体主義国家においては、官僚たちは極度に傲慢で尊大になってしまっており、その結果、小役人でさえもが傲慢かつ尊大な態度をとり、あたかも彼らが一般の人々に対して大きな恩恵を与えて、生存させてやっていると考えているかのようです。
これらの全体主義国家においては、役人たちは、国家は国民のためよりも彼らのために存在すると考えやすいのです。彼らは公共のために奉仕しようと努める代わりに、公共が彼らを支え、彼らに奉仕するために存在すると錯覚してしまうのです。このような考え方は完全に誤っています。
政府と役人は人々の利益のために存在するのです。彼らは神の僕であって、人のために存在するものです。このことは民主主義国においてのみでなく、いかなる政体の国についても真理でなければなりません。パウロがこの書を書いたとき、ローマ帝国は決して民主主義の国ではありませんでした。しかし、それにもかかわらず、為政者たちは民の利益のために働く神の僕であると、パウロは述べています。
為政者たちが神に仕えるという自覚を持っていない無信仰の人たちであったとしても、神のみ心においては、彼らは人間社会における神の御目的のいくつかを達成させる神の僕であると考えられるのです。非キリスト教国家の非キリスト者の為政者に対する時でも、キリスト者は神のこの観点から事柄を見なければなりません。
キリスト者は、為政者たちは悪を抑制するために存在させられているのですから、非キリスト者役人たちでも、その不信仰にもかかわらず、神によって神の御目的達成のために用いられているのであると考えるべきです。キリスト者は政府を政府そのものとしてではなく、人間社会における神の御目的達成の手段と言う観点から、聖書が見ているように政府を見なければならないのです。
「あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果たしなさい。すなわち、貢を納むべき者は貢を納め、税を納むべき者は税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい」(7節)。
為政者たちは人間社会の利益のために神に立てられているのですから、私たちは当然、彼らに対して義務を果たさなければなりません。このことはただ法律を守るというだけに留まるものではなく、もっと積極的に、経済的にも、また私たちの影響感化によってでも、彼らを支え、支持してゆかねばなりません。
ここでの「貢」とは不動産などに対する税を指し、「税」とはいわゆる「税金」のことです。また「恐れ」と「敬い」とは、程度の違いはあっても、「恐れ」は目上の者に対する特有の尊敬を表し、「敬い」は同等の者に対する適切な敬意を表す言葉です。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」