[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・53・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・7・・
答・・20 わたくしが幼稚園児であった時です。先生が部屋の中に入ってきた時、紙くずが床一面に散らかっていました。先生は厳しい顔つきで「こんなこと誰がやったのです?」とみんなを睨みつけました。誰も何も言いません。沈黙の時間が流れました。すると一人の園児が身をかがめて紙くずを拾い始めました。「あなたがやったの?」と先生が問いました。彼は一言も答えず、黙々と紙くずを片付けました。「しょうがない子ね。今度やったら承知しないわよ」と言って、彼を叱りつけました。
わたくしは、やったのは彼でないことは知っていました。彼がそんなことをするような子ではないことを知っていたからです。恐らく先生も彼がやったのではないことを知っていたと思います。しかし、なされた結果については厳しく咎めなければなりません。そうでなければ、先生が平素から注意していることが、どうでもよくなってしまいます。だから厳しく咎めたのだと思います。わたくしは、その時、彼にちょっとした嫉妬心を抱きました。
わたくしも一緒に片付けに加わっていたらちょっとカッコよかったなと思いました。しかし、わたくしは見ているだけで何もしませんでした。ほかの連中も皆そうです。しかも、紙くずを蒔き散らした子に「やめろ」ときつく制止する子はいなかったのです。更に悪いことには、その子が紙くずを蒔き散らすのをはしゃぎ立てた子もいれば、黙ってみていた子もいたのでした。そういうことから言えば、全員がられて当然だったと言えます。が、実際には紙くずを万座の中で一人かがんで拾い集めた子に、集中的なお叱りが下ったのでした。
キリストは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちのやっていることがわかっていないのですから」と言って、自分を十字架につけて殺す側にいるすべての人のために、神からの赦しを求められました。本来、許しを求めなければならない側の人間の無頓着さを担って、自分の命をかけられたのです。
罪に対するものは何であっても赦しはありません。罰せられて初めて赦しが成り立つのです。その意味では、キリストが十字架の上で父である神から見捨てられたのは、すべての人が受けるべき神からの遺棄という罰を、代わって担われたということが出来ます。キリストによって代罰、代苦ということが成し遂げられたことによって今やすべての人が神に赦された者として、キリストが神の子であられたと同じように、神の子として遇されるという恩恵に与かることができるに至っているのです。
この事実を贖罪と言い、このことによって得られたことが「神との和解」と言われていることであります。ですから、このことを信じている者はすべて「天の父なる神様」と言って、まるで子が親に向かって言うように語りかけることが出来る者とされているのでありまして、これが「神なき世界」からの解放であり、救いであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年5月のラジオ放送予定>
5月 7日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
14日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
21日 西村 清 (中部教区巡回牧師)
28日 西村 清 (中部教区巡回牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」