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解説 ウエストミンスター信仰告白 (57)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第27章 礼典について・・・2・・・
3 正しく用いられる礼典の中で、またはそれによって、表示される恵みは、礼典のうちにあるどのような力によって与えられるのではない。また礼典の効果は、それを執行する者の敬けんあるいは意図によるのでもない(1)。それはただ、みたまの働き(2)、および礼典の使用を権威付ける命令と、ふさわしい陪餐者に対する祝福の約束とを含む礼典制定のみ言葉とによるのである(3)。
1 ロマ2:28,29、Ⅰペテロ3:21
2 マタイ3:11、Ⅰコリント12:13
3 マタイ26:27,28、マタイ28:19,20
三 ここでは、次の2点が留意されなければならない。
① ローマ・カトリック教会のサクラメンタリズムと呼ばれる誤り(すなわち、礼典の効力は、ローマ・カトリック教会の司祭による執行によって発効するという主張とともに、外的物質そのものに救いの恵みの効力が内在するために、たとえ不信者(動物でも)でも、これにあずかる時には、その効果に浴するとする誤り)。
② 礼典の効果を、これを受ける者の側の主観的影響に取ると考える誤り(従って、その効果を、これにあずかる本人の信仰から生じるとする誤り)。
これら二つの誤見を排除して、礼典の効力は、聖霊の働きと、これを制定された神・キリストのみ言葉に根源する、ということの主張である。信仰とは、このように聖霊とみ言葉とによって、信者の側に生じる事柄に他ならない。
4 福音のうちにわたしたちの主キリストが命じられた礼典は、ただ二つ、すなわち洗礼と主の晩餐だけである。そのいずれも、合法的に任職されたみ言葉の教役者以外のだれによっても執行されてはならない(1)。
1 マタイ28:19、Ⅰコリント11:20,23、Ⅰコリント4:1、ヘブル5:4
四 ローマ・カトリック教会が7つの礼典を主張するのに対して、わたしたちは2つのみに限定する。結婚式や按手式などには、ある点、礼典的な要素のあることは、否定できないけれども、決して恵みの契約の礼典ではない。礼典はキリストの制定によるもので、特にみ言葉の使役者、すなわち、教師によってのみ執行されるものであり、これは、特に重大な一点である。ローマ・カトリック教会は、一方、彼らの司祭の執行する礼典のみに効力があることを主張しつつ、他方、緊急の場合には、助産婦による授洗を有効と認める。それはサクラメンタリズムの論理からくる自己矛盾である。
しかし、ではなぜ礼典が教師によってのみ執行されなければならないのだろうか。福音の宣伝(教)は、キリスト者すべての義務であるのに、という疑問に対する答えは、礼典は地上教会(可見教会)に不可欠な事柄であり、可見教会は単に個々の信者の総和ではなく、一つの制度、組織を持つ団体である。公同礼拝の宣教が、教師(または説教免許者)によってのみ正規になされるように、礼典も教師によってなされるべきである。
それは、礼典は可見的宣教に他ならないからである。さらに、なぜ、説教免許者は礼典を執行してはならないのであろうか。それは、礼典執行には会員の戒規と言う意味が付随するからである。
教師といえども個人の資格でなすべき事柄ではなく、教会の役員として公式に行なうべきであるから、小会の委託によってこれをなすのである。
5 旧約の礼典は、それによって表象され表示される霊的な事柄に関しては、実質的に新約の礼典と同一である(1)。
1 Ⅰコリント10:1-4
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」