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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・54・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・8・・
答・・13 日本人は昔、死んだ人は山へ帰ると信じられていたようです。山ふところに抱かれて永遠の眠りにつくなど、自然でいいなあという思いがあります。土葬にすることは、人間のからだが遂には土の成分に吸収されてしまうことですから、聖書記者が「神は人間を土から造られた」と言っているのは、その意味では適切な表現であると言えます。事実人間には自然的な存在であるという一面があります。
ただし、こんにちでは死者が「山へ帰る」という思いにはなかなか繋がりません。中には「山に帰りたい」とか「海へ帰してほしい」という人もあって、そういう場所へ散骨する人もいますが、大抵の人は墓場か納骨堂へ、それも骨だけで納まることになっています。帰る場所が人工的になりました。死後納まる場所が人工的になり、しかも狭い場所に限定されることになってしまいました。
以上は場所のことですが、それだけではありません。神道では亡くなった人は神になりますし、仏教では仏になります。靖国神社に神として祀られたり、祭神が大昔の誰かであったりするのはその現れであり、死人のことをホトケサマなどというのもそれです。更には死んだ人に戒名に現されているような位階がつけられます。そういう風に、わたくしたちの間には「成神」とか「成仏」とかいうように、死者を拝むということも何ら問題なくなされています。
以上のような伝統的でまた一般化されている死者や死後観に対して、「ではキリスト教ではどう考えているか」と問われて先ず言えることは、聖書では、死ぬことを「眠りにつく」と言っているということです。日本語でも「永眠」という言葉は定着しています。この表現はなかなか言い得て妙だと思います。というのは、わたくしたちは、朝、目覚めて、それまで眠っていたことを知ります(もっともそういうことを毎朝考えているわけではありませんが、事柄としてはそうです)。
目覚めなければ眠っていたということは分りませんから、「永眠」と言うことになります。ただし、その眠っている状況が本人においてどうであるかは、第三者には分かりません。生きている人間が「あの人はお眠りについた」という言い方であっても「死んだ」ということを言い表している、ということです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年6月のラジオ放送予定>
6月 4日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
11日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
18日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
25日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」