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解説 ウエストミンスター信仰告白 (58)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第27章 礼典について・・・3・・・
5 旧約の礼典は、それによって表象され表示される霊的な事柄に関しては、実質的に新約の礼典と同一である(1)。
1 Ⅰコリント10:1-4
五 新約時代と旧約時代は、同じ恵みの契約の二つの時期で、一方はキリストが来られた後であり、他方はキリストを待ち望んでいた時であって、別個の契約ではない。従って、旧約時代の礼典のしるしが表示した霊的事柄と、新約時代の礼典のしるしが表示していることとは別の事柄ではなく、まったく同一の霊的事柄であることは当然である。
まず、わたしたちキリスト者がこの世で受けている救いの祝福(義認とか、子とされることとか、聖化などの恵み)と最後の審判において受ける究極的な救いの完成状態との関係を考えると、それは太平洋と海岸の入江の関係に比べることができよう。両者は、完全な状態とそれの初歩的な様相との相違であって、実質は同一の新しい命である。
ところが、礼典のしるしが表示する霊的事物とは、普通には自分の掌中にすくい上げられたにも等しい一滴の水そのものである(場合によっては、太平洋そのものを意味するかも知れないが)。従って、この霊的いのちと、それを表示しているしるしそのものとは、決して本質的には同一物ではない。洗礼の水にしろ、聖餐式のパンやぶどう酒にしろ、それ自体はどこまでも被造物であり、朽ち果てる品物に過ぎない。
しかし、この礼典を行なう場合、それにあずかったキリスト者の魂は、現実にそれが表示する霊的祝福、すなわち、永遠のいのちの一滴に浴しているのである。その効果は、何となく心がうるおう、というような気分的な問題ではなく、むしろ、主観的自覚を越えた客観的実効を伴うものである。
もちろん、これにあずかった人が真に神の聖霊の働きに浴している場合のことであって、偽信者、偽りの一時的信仰の持ち主の場合には、受洗も、主の晩餐の陪餐も、少しもそのような祝福を伴わないばかりか、かえって、裁きを招くことになるのである。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」