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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・55・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・9・・
答・・14 では「永眠」というのは本当に永遠の眠りであって、朝起きるように、時が来れば再び眠りから覚めるかどうか、ということが問題になりそうです。この点、わたしたちが子供のころから仏教説話で聞かされてきた内容は、三途の川を渡ること、しかも渡し賃が要ることを始めとして、飽きないくらい多様な世界が死後段階的に展開されるというものでありました。勧善懲悪を教えることに現実性がありました。
こういう説話をどう受け止めるかは別として、この説話では死んだら永眠とはならないわけです。生きていた時のツケは四十九日までに、遺族が代わってきちんと始末しなければならないとされています。仏教の門外漢であるわたくしには誤解があるかも知れませんが、見た所ではそんな感じがします。即身成仏ということも言われていますから、成仏ということは有り得るわけです。
こういうことに比べると、キリスト教では、成仏とか成神とかは有りません。死んだ人にも等しく神の支配の下で、神と共にある、ということです。そして、そのことは、イエス・キリストを信じている者に示されていることである、ということです。
ただし、ここで明らかにしておきたいことは「××に成る」ということはないにしても、キリストを信じる者は、現に今生きているこのままで「神の子とされている」ということがあります。「神の子とされている」というのは、本来神の子ではなく、神の子と呼ばれるには全くふさわしくない者が、神の側の一方的な意志によって(それが恵みというものですが)「あなたをわたしの子とした」と宣言されたことによって成り立っていることなのです。
これはわたしたち人間の側の精進潔斎修行努力の結果与えられた身分ではなく、わたしたちが神の子として遇されるためにしなくてならないことの一切をキリストが引き受けて下さったことによって実現されている事実です。
神は永遠の方で、神を信じる者は、この永遠であられる方に受け入れられているのですから、この地上という空間と時間の制約のある世界に住みながら、すでに永遠の世界に繋がれているのです。ですから、死んで改めて神と共にいるようになる、ということではありません。死ねばこの世にはいなくなりますが、神と共の生きるということは、生きている時から変わりなく続いているのです。
さきに「死んだらどうなるか」と問われる方があったことを述べました。ここでこの問いに答えるなら「どうかなるというものではありません。今がそうであるように、死んでからも神様と共にいることに変わりはありません。そして、神様が計画されていることを、わたしにされるでしょう。そしてそのことがなによりも一番良いことだと信じています」と答えたらよい、と考えています。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」