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解説 ウエストミンスター信仰告白 (59)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第28章 洗礼について・・・1・・・
1 洗礼は、イエス・キリストによって定められた新約の礼典であって(1)、受洗者をおごそかに見える教会に加入させるためだけでなく(2)、彼にとって、恵みの契約(3)、キリストにつぎ木されること(4)、再生(5)、罪のゆるし(6)、イエス・キリストによって自分を神にささげて新しい命に歩くこと(7)のしるし、また印証となるためである。この礼典は、キリストご自身の指定によって、世の終りまでキリストの教会のうちに継続されなければならない(8)。
1 マタイ28:19
2 Ⅰコリント12:13
3 ロマ4:11、コロサイ2:11,12(*) *ロマ4:11をコロサイ2:11,12と比較
4 ガラテヤ3:27、ロマ6:5
5 テトス3:5
6 マルコ1:4
7 ロマ6:3,4
8 マタイ28:19,20
一 この定義を学ぶにあたって、わたしたちは前章で告白されていた「礼典」一般についての教えをよく覚えていなければならない。二つの礼典に共通な基本的な教えを、まずよく理解したうえで、洗礼という一つの特定な礼典について考えるのでなければならない。
洗礼の第一義的な意味は、見える教会に加入させる(入会式)という点にある。けれどもそれだけではない。自分と神との恵みの契約、キリストとの神秘的結合、再生、罪の赦し(義認と言いかえてもよい)、新しいいのちに歩むためのイエスにあっての聖別(再生また聖化と言いかえてもよい)をも意味している。この最後の点は、さらに感謝と献身の意味を含むものとみてよいが、以上のような事柄の「しるし」であり、また「印証」である。
これをひと口で言いかえると、この世の人の一人として、人間中心に生きていたわたしたちが、今やイエス・キリストの贖いに浴して、神のものとして信仰生活に入れられたことの信仰告白であるとともに、そのような信仰を与えられた、神の恵みの手段であり、その聖霊の働きの保証である。これが、二礼典中の一つであるのは、まったくマタイによる福音書28章にある復活の主の成文的なご命令に基づくのである。無教会主義が、洗礼の必要性をコリント人への第一の手紙1章17節などから否認するのは誤っている。
2 この礼典において用いられるべき外的な品は、水であり、当事者はそれをもって、合法的にその職に召された福音の教役者によって、父と子と聖霊のみ名において洗礼を授けられなければならない(1)。
1 マタイ3:11、ヨハネ1:33、マタイ28:19,20
二 礼典には、しるしと表象されるものとの二面がある(第7章2項参照)ように、外的要素と霊的恵みとがある。洗礼の外的要素は水であって、液体なら何でもそれに代用してよいのではない。その意味で、洗礼を「水の洗礼」と呼んでいる。また、洗礼において定められていることは、①「合法的にその職に召された福音の教役者によって」施行されなければならないこと。②「父と子と聖霊」という三位一体のみ名において洗礼を授けなければならない、ということである。
第一の点は、前章の4項で学んだ通りである。第二の点については、マタイによる福音書28章の方は「父と子と聖霊のみ名によって」なされることが正しい。使徒行伝2章38節などで「イエス・キリストの名によって、バプテスマを・・・」となっている場合は、洗礼形式の問題ではなく、「キリストの権威による」という意味であり、キリスト教の洗礼(バプテスマのヨハネの洗礼などとの区別)という意味と思われる。とにかく、マタイによる福音書28章は唯一のこの事柄に関する明言的なみ言葉であるから、教会はこれを根拠として、洗礼が礼典であり、また、その形式についても、そこに言われている限りのことを守るべきである。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」