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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・56・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・
答・・15 こういうことが言えるのは、イエス・キリストを信じているという信仰によってのことであります。では「キリストを信じることによってそういうことが言える根拠は何か」と問われたならキリストが十字架につけられたことと、三日目に復活されたことにあります。
戸籍の記録が残っているなら「ナザレのイエス・○○年○○月○○日エルサレム、ゴルゴタ刑場にて死刑により死亡」とあるはずです。日本の寺のように過去帳があれば埋葬の記録もあるはずです。その後、その遺体が、アリマタヤのヨセフによって引き取られ、彼の墓に納められた。ということも、当時新聞記者がいれば事実として読者に伝えたに違いありません。これらのことは、歴史上の事実であるからです。イエスの伝記を書いた福音書の記者もこのことは記しています。
ところが、キリスト教のエッセンスともいうべき「使徒信条」には、イエスについて「死にて葬られ」に続いて「陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り・・・」というひとくだりがあります。これは史実としては記録されません。もし記録されるとすれば「イエスの弟子たちは、イエスの死後、イエスは陰府に下って、三日目に死人のうちより甦って、更に天に昇った、と信じているそうだ」ということになるでしょう。それは、まさにその通りでありまして、イエスが陰府に下ったとか、復活したとかいうことは、誰にも納得できるような確証を提供することができない事柄であるからです。
そういうことから言って「使徒信条」というものは、信仰を言い表したものであって、史実の確認文ではないことは明らかです。
「そうだとすると、信仰といったって、それは単なる思い込みに過ぎないのではないか」という批判が出ることだろうと思います。しかし、そういう批判は、すべてを合理性と客観性に合致しなければ認められないとする、科学によってだけ事柄を捉えようとするところから出てくるのであって、科学ではとらえきれないものが沢山あるのに、それを無視していることに因ると言わざるを得ません。
例えば、出会い頭に人とぶつかった場合「目から火が出た」と言います。また、ある時、今まで全く気付いていなかったことを「はっ」とするような仕方で気付かされた場合に「目から鱗が落ちた」と言います。こういう時、第三者には「目から出た火」や「目から落ちた鱗」が見えるわけではありません。それは客観性を持っていないし、科学的に証明できることでもありません。だからといって「それは単なる思い込みではなかったか」と言われてれも当事者は承服できないことだろうと思います。それは、その人にとって真実であるからです。また、批判した人が後に同じようなことを体験した場合、以前批判したことが見当違いであったことを体得するに違いありません。それは「真実」というものがそういうものでもあるからです。
信じていることに対して「それは非科学的である」とか「客観的普遍性を持っていない」と批判することは容易でありますが、そういう批判が「真実」を見過ごすことになってしまうことになりかねないことを、先ずは知っておく必要があると思います。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年8月のラジオ放送予定>
8月 6日 黄 敬秀 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)
13日 黄 敬秀 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)
20日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
27日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」