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解説 ウエストミンスター信仰告白 (60)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第28章 洗礼について・・・2・・・
3 その人を水に浸すことは、必要ではない。だがその人に水を注ぎ、あるいは水をふりかけることによって、洗礼は正しく執行される(1)。
1 ヘブル9:10,19-22、行伝2:41、行伝16:33、マルコ7:4
三 洗礼に関するプロテスタント教会内の論争は、主として、その執行の形式に関してであった。バプテスト派は浸礼を主張するが、改革派教会は、浸礼のみが唯一の定められた方式ではなく、潅水や注水などどちらでもよいと考えている。洗礼に関する形式は、決してイエス・キリストによって定められたり、命じられたりはしていないことが、マタイによる福音書28章のみでなく、使徒行伝の実例からも推論できる。
4 実際にキリストへの信仰と服従を告白する人々だけでなく(1)、信者たる両親または片親の幼児らも(2)、洗礼を授けられなければならない。
1 マルコ16:15,16、行伝8:37,38
2 創世17:7,9、ガラテヤ3:9,14、コロサイ2:11,12、行伝2:38,39、ロマ4:11,12(*)、
Ⅰコリント7:14、マタイ28:19、マルコ10:13-16、ルカ18:15
*創世17:7,9を、ガラテヤ3:9,14、コロサイ2:11,12、行伝2:38,39、ロマ4:11,12と比較
四 誰に対して洗礼は授けられなければならないか、であるが、それは第一に、信仰を告白する人にである。この場合、特に「実際にキリストへの信仰と服従を」と記されていることは改革派教会的特色であろう。それは「信仰と行ない」とを二本立てにしているローマ・カトリック教会の立場とは異なるところである。洗礼の意義(一項を参照)の中に列記されている諸点からいって、信仰の告白ということの中には、主イエスを己が救い主として受け入れる者は、当然、彼の戒めを守り、教会員の義務を忠実に行うという誓約が含まれている。第22章「合法的宣誓と誓願について」で学んだ通り、ローマ・カトリック教会的宣誓(誓いを立てること)に反対するけれども、本項のような意味の誓約は必要である。
次に、幼児への洗礼が「授けられねばならない」と告白されていて、「してもよい」と言われていないのも改革派教会的特色で、もちろん誓約の信仰から出てくる結論である。幼児洗礼に関しては、なかなか問題が多い。
ウエストミンスター小教理問答の問94の答えを見ると、第一に、キリストに接ぎ木されること、第二に、恵みの誓約の祝福にあずかること、第三に、主のものとなるという誓約(主のものに予約されること)とが言われているが、再生や、罪の赦しという点は言われていない。それは第二点に含まれている。バプテスト派は、この点(再生、罪の赦し)こそ、洗礼の第一義的なことだと考えている。
たしかに、洗礼は罪の赦しのバプテスマなのである(クルマンなどの洗礼論はこの点を強調する)。しかし、ローマ人への手紙やヘブル人への手紙の所説は、かならずしも、そうはとれない。むしろ、ウエストミンスター小教理問答の言う通りである。
この点から見るとき、初めて幼児洗礼の意義がはっきりしてくる。ただし家族主義ではなく、家庭本位という見地から第二親等以下の血族のことは問題にならない。かえって、養子女の場合は施すべきであると私個人は思っている。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」