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小閑記
わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
~ガラテヤ2:19~20~
キリスト者の生きる姿勢を示す言葉に「献身」と言うのがあります。一般的には牧師を志すときに、この「献身」に者を付けて「献身者」と言われています。
この聖句がまず語ることは、キリストの救いのみ業は、私たちが自分でやり遂げたかのように、信じ難いことですが、実際は違いますが、完全に私たちのものであるということであります。神の言葉は、一人の人がすべての者のために死んだので、すべての者はキリストにあって死んだという、言い尽くせない大きな慰めを与えられているのです。こうして私たちはキリストと共に十字架につけられたのであります。
しかし、このように完全に私たちのものであるのに、それにもかかわらず、私たちの外側にあります。それはキリストの内にあることだからです。私たちのものであるものが、キリストにあって私たちの所有となるならば、私たちは自分を全くキリストに捧げなければなりません。本当に信じ難いことですが、自分の罪と汚れを主に渡す信仰に立たなければなりません。
現実にキリスト者の日々は、なおも悪の力が私たちを苦しめ、傷つけ、打ち負かすのです。しかし、私たちは悪の奴隷ではないのです。罪み深く、不完全な信仰者でも私たちの支配者は救いの神、愛と許しの神なのです。肉のこの世界に生きていても、支配者は神なのです。
聖書の中に「あなたは死んだのである。それゆえ死につけられたのである」と言われています。奇妙な言い方ですが、死につけられた者は、キリストと共にあり、キリストにあって生きる者にされた者として、生きることを許され、生きるようにされているのです。
すなわち「献身者」として生きる権利を神様から与えられていることに感謝なのです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」