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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・57・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・
答・・16 「陰府」というところは、死んだ人が赴く最終箇所であります。「地獄へ落ちる」ということを言いますから、その「落ち込む果て」と言ってもよいでしょう。「そんなところがあると確証できるか」という人もおられるでしょうが、「地獄へ落ちるのではないか」と思っている人間の真実性があることは否定できません。そういう前提の上で言いますと、イエスは死んで葬られ「陰府に下った」というのですが、死後人間が行き着く究極の場まで行ったということになります。前回触れた「使徒信条」には「陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り」とあります。これはイエスが「死から復活された」ということです。
ここで少し聖書の記事に触れますが、イエスの伝記とも言うべき福音書には、復活のイエスに最初に出会ったのは、数人の女性であったといいます。その話を聞かされた弟子たちは誰も「そんなことが信じられるか」と、彼女たちの言うことを信じなかった、と言います。それは今日に至るまで同じことでありまして、イエスが死人の中から甦ったなどは、まともに受け止めようとはしません。むしろ、そういうことは信じることが出来ないということが当たり前で、信じるという方がおかしいとされます。
ところが、この「おかしい」とされていたことが、おかしくなくて真実となったというのが、福音書に記されている弟子たちの証言でありますし、その後、クリスチャンになった人たちの証言でもあります。
キリスト教会が日曜日に仕事を休んで礼拝の日としたのは、日曜日が復活の日であったことに因ります。逆に言うと、イエスが復活されなかったなら、日曜日を礼拝の日として仕事を休むということはあり得なかったということになります。
では、イエスが復活されたということはどういうことであったかと言いますと、先ず言えることは、人間にとってその生の最後に立ちはだかって、それから先へと進ませないという壁がイエスによって打ち破られた、ということであります。勿論、そのことは人間の体がいつまでも死なないということではありません。体は死ぬことは確実です。イエスも死なれたのです。
しかし、その死が終わるのではなく、神によって新しい命へと変えられる、ということがイエスの復活において示された、とうことであります。
このことが、「死は勝利にのみこまれた。死よ、お前の勝利はどこにあるか」という根拠であります(コリントⅠ、15:54~)。
この項の始めに「陰府」のことに触れましたが、イエスの復活は、この「陰府を支配している力が破られたことでありますから」、「陰府に閉じ込められていたすべての人の陰府からの解放」が実現したのでもあります。「死からの解放」としての「救い」がここに実現しているということであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年9月のラジオ放送予定>
9月 3日 田口博之 (日本基督教団名古屋教会牧師)
10日 田口博之 (日本基督教団名古屋教会牧師)
17日 尹 成奎 (日本基督教団津島日光川燈台伝道所牧師)
24日 尹 成奎 (日本基督教団津島日光川燈台伝道所牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」