[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
さんびか物語・・・42・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・41・・・
ポーリン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美404番
山路こえて
<神様のみ言葉>
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」。「主よ。あなたの道を私に教えてください」。「私をとこしえの道に導いてください」。
~箴言14章12節、詩篇27編11節、139編24節~
讃美歌404番の“山路こえて”は、日本の教会で明治時代からもっとも広く愛唱されてきた讃美歌の一つと言えましょう。その理由にはいろいろありましょうが、その一つは、西村清雄によるこの讃美歌の素晴らしい歌詞にあります。
また、曲のGOLDEN HILLは、日本的な讃美歌のメロディで、作詞者の言葉にぴったり合うために愛唱されているのでしょう。とにかく、この讃美歌は、日本のクリスチャンは心から歌えるものの一つであると言えましょう。残念なことですが福音唱歌以前のアメリカ讃美歌初期の曲であったこのGOLDEN HILLについては、あまり詳しいことはわかっていません。
GOLDEN HILLの作曲者エアラン・チャピンは、1768年生まれのアメリカ人です。彼はこの曲を1805年に作曲したそうです、詳しいことはわかっていません。しばらくの間、この曲はよくアメリカのゴスペルソングとして用いられていたようですが、今ではアメリカの主な讃美歌集には見出すことは出来なくなりました。
1954年版の讃美歌には、このメロディは、404番のほかに478番の“海ゆくとも、山ゆくとも”にもこのGOLDEN HILLが用いられています。
作詞者西村清雄は、1871年(明治4年)に松山に生まれ。青年の頃キリスト教を信じるようになりました。彼はしばらく京都の同志社に入学しましたが、間もなく退学して松山市に帰って来ました。たまたま宣教師ジャドソン女史が松山夜間学校(現在の松山城南高等学校)を創立しましたので、彼女の招きを受けて同校の校長に就任し、その後、62年間一生懸命に勤労青年の教育と前進に全力を注いだのであります。
1953年(昭和28年)に老齢になられたために引退し、1964年(昭和37年)12月25日、93歳で召天されました。この歌は、1903年(明治36年)に作られたもので、西村が宇和島教会の伝道の応援を終えて、夜、松山に帰る途中、一人淋しい暗い山路を歩いていた時に、心に浮かんできた歌でありました。
<404>
1 山路こえて ひとりゆけど、
主の手にすがれる 身はやすけし。
2 松のあらし 谷のながれ
みつかいの歌も かくやありなん。
3 峯の雪と こころきよく、
雲なきみ空と むねは澄みぬ。
4 みちけわしく ゆくてとおし、
こころざすかたに いつか着くらん。
5 されども主よ われいのらじ、
旅路のおわりの ちかれとは。
6 日もくれなば 石のまくら、
かりねの夢にも み国しのばん。
この実に美しい歌詞を読んで心に訴えられるのは、その背景にある自然の美しさであります。
作者が越えようとしている険しい山路、傍らの緑こき松の梢、谷を流れる清流や山の峯をおおう真っ白い雪、あくまでも青く澄み渡る夜空と美しい冬の夕暮れという自然界の美に心打たれ、味わいますなら、作者ならずとも、天と地とを創造なし給うた、唯一の偉大な創造者なる神様を崇め拝さずにはおれないことでしょう。
昔、ダビデ王は「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇19:1)と歌いましたが、私たちもこの讃美歌を歌いながら、神様のみ手のわざを覚えたいと思います。
また、この讃美歌を一つのたとえとして味わってもよいと思います。それは、この山路を私たち一人一人の人生の道とすることが出来るからであります。私たちはみな、この険しく暗い人生を歩まなければならない者であります。途中で出会う嵐、越えなければならない流れ・・・。これらは、私たちに襲ってくる試み、悩み、病気でありましょう。また、日が暮れると真っ暗になります。人生にもこのような希望のない暗闇の時もあります。しかし、このような時にこそ、神様の大いなる導きと限りない愛を、己が手にいただくことが出来る時でもあります。
1節では“山路こえて、ひとりゆけど、主の手にすがれる身はやすけし”と歌っていますが、この1節の中心は言うまでもなく“主の手にすがれる”というところにあります。キリスト者は主のみ手にすがって、み手にひかれつつ、この世、人生を歩み過ごしている者であります。このことは讃美歌294番の3節でも歌われています。“けわしき山路も、おぐらき谷間も、主の手にすがりてやすけく過ぎまし”とあります。
主が共にいまし給うが故に、神様を信じ信頼する人々にとりまして、この世のどのような人生の嵐にも、暗く険しい道やどのような誘惑にも、失望にも打ち勝つ力が与えられているのであります。
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と主イエス・キリストがお与えくださったお約束を覚えて、雄々しくこの世を歩み旅する者にあなたもなってください。
また私たちの人生の旅路には、目的地のあることを忘れてはなりません。主イエス・キリストが仰せになりましたように、私たちは各自が自分の旅路の終わりの目的地を選ばなければなりません。
滅びに至る広い道を選ぶ者は、永遠の死に定められています。その逆に、いのちに至る狭い道を選ぶ者は、永遠に神とともに住む喜びが約束されています(マタイ7:13~14)。、5節で自分の神様への揺るがぬ信仰を力強く表現しています。すなわち、道が険しくても、行く手が遠くても、目的地にはいつかかならず着くことを信じ、また、祈りをもって旅路の終わりを主なる神様にお任せいたしますと歌っています。
“みちけわしく ゆくてとおし。こころざすかたに いつか着くらん。されども主よわれ祈らじ、旅路のおわりの近かれとは。最後の、日も暮れなば 石のまくら、かりねの夢にも み国しのばん”は、創世記の28章10節以下に記されているヤコブのベテル(神の家)での夢が背景になっています。
「ヤコブはベェルバをたってカランへと旅立った。ある所に着いたとき、ちょうど日は沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向かって立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。・・・・わたしはあなたがたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守りあなたをこの地に連れ戻そう』」(創世記28:10~15)。
ちょうどヤコブと同じように、作者西村は暗い山路で、神様が彼と共におられ、彼を旅路の目的地まで守ってくださることを知らされて、きっと歌わざるを得なかったのでしょう。
あなたもそして主にある方々も、いつも神様を覚え、神様が共にいまし給うことを心に知って、神様よりの守りと祝福が頂けるように、日々、信仰ある生活を送って頂きたいと願うものであります。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」