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解説 ウエストミンスター信仰告白 (61)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第28章 洗礼について・・・3・・・
5 この規定を侮り、あるいはなおざりにすることは、大罪ではあるが(1)、それなしにはだれも再生させられ、あるいは救われることができないとか(2)、受洗者はみな疑いもなく再生させられるといったように、恵みと救いがそれに不可分に付加されているのではない(3)。
1 ルカ7:30、出エジプト4:24-26(*) *ルカ7:30を出エジプト4:24-26と比較
2 ロマ4:11、行伝10:2,4,21,22,31,45,47(*)
*行伝10:2,4,22,31,45,47が正しい。1648年(第3版)には10:21は含まれていない。
3 行伝8:13,23
五 本項は、洗礼に対する合理主義的な解釈とともに、迷信的な考え方を排除している。人はいつも、これらのどちらかに傾いた考えにとらわれやすい。一方は近代的な理性の自立を盲信する点で、他方は古代的な無理性的、奴隷的盲従という点で、これらはともに迷信であると言うべきであろう。信仰のことに関して、どこまでも神の言葉である聖書に基準を置かなければならない理由は、実にこのような迷信への逸脱を防ごうとするためである。
6 洗礼の効果は、洗礼が執行されるその時だけのものではない(1)。けれども、この規定の正しい使用によって、約束されている恵みはただ提供されるだけでなく、神ご自身のみ旨の計画に従って神が定められた時に、老幼を問わずその恵みが属している者に、聖霊によって現実に表示され授けられるのである(2)。
1 ヨハネ3:5,8
2 ガラテヤ3:27、テトス3:5、エペソ5:25,26、行伝2:38,41
六 礼典が神の定められた恵みの手段であることを思うとき、その悪用、誤用、乱用が厳に戒められなければならないとともに、その軽視は、実に神に対する不信に通じることなのである。また、その効果、発生の時期に関し、人間の側の勝手な憶測は禁物である。
すべては聖霊のみ業であるために、不可見的なものである。これが信仰の目に見え出す時期(聖霊の結ぶ実とパウロが言うもの)は、決して聖霊が現実に与えられた時と一定の時間的関係を持つものと考えるわけにはいかない。忍耐を持って信じて待つ必要がある。
7 洗礼の礼典は、だれに対しても、ただ一度だけ執行されるべきである(1)。
1 テトス3:5
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」