[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「ローマ人への手紙研究」
第80課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・31・・・
C キリスト者の社会的義務
「社会において果たすべき義務」 13:8~10
「互いに愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである」(13:8)。
パウロがここで、決して果たし切ることが出来ない義務である愛の場合を例外として、その他のすべての社会的義務は、これを果たすことがキリスト者の義務であること教えています。
この箇所をキリスト者は借金をしてはならないとか、何物も借りてはならないことを教えていると考える人たちがいます。しかし、このような考え方は、ここの箇所の意味を正しく把握していません。ここで命じられているのは、借りは返さなくてはならないということです。私たちは借りを放置しておいてはならないのです。もちろん、私たちは将来返済できる確かな見通し無しに、借財をするべきではありません。それは他の箇所において認められています。
「ここでの命令は、すべての負い目、租税、その他、何であれ、すべて負うているものは返しなさい。しかし、愛の義務だけは依然として返されないまま、残っていることを覚えていなさいと言うことです」(C・ホッジ)。
たとえ、お金や奉仕などのすべての負い目を返したとしても、依然として隣人に対する愛の義務だけは残っているのです。
「隣人に対する愛の義務」 13:9、10
「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する」(13:9)。ここの言葉と8節で言われたことを確認すると同時に、私たちの隣人に対する愛とは、彼らに対する単なる善意ということに留まらないで、隣人に対する私たちの行為の中に表れてくるものであることを教えています。
もちろん、これらの戒めは、単に「~するな」という消極的な意味にのみ解釈されるべきではありません。積極的に理解されて、反対の徳の実践を求めていることを銘記すべきです。他人に害を与えないばかりか、善を図らなければならないのです。
「愛は隣り人に害を加えることではありません。だから、愛は律法を完成さるのである」(13:10)。「愛はその対象となるものの幸福を喜ぶものであるから、自分の愛するものを害したりすることから私たちを守り、結果的に、私たちを導いて、すべての律法の要求するところを果たせるのです。何故ならば、律法は友人の最善の益とならないようなことは何も要求していないからです。だから、パウロは自分を愛すると同じような真摯な愛をもって隣人を愛する者は、律法を完成すると言うのです。自分が同じ環境の下に置かれたときに、してもらいと思うことを、隣人に対して行う者は、律法を全うするのです。だから、律法全体は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という一つの律法に置いて理解されるのです」(C・ホッジ)。
ここで言われている律法というのは、隣人に対する律法、すなわち、第5戒以下を指しています。律法には、神に対する直接的な義務を教える1~4戒がありますが、ここではそれらは論じられていません。隣人愛がキリスト教のすべてであるとする考えは誤りです。十戒の第一の石の板には神への愛、すなわち、直接的な神への義務が記されていることを忘れてはなりません。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」