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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・58・・・
問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。
答・・1・・
「復活」という言葉は、それ自体に、そういう言葉を語る人にも聞く人にも、何らかの先入観を抱かせるようです。例えば「敗者復活戦」とか「あの人をもういっぺん復活させよう」などと言うことがありますが、その場合の復活は、一度退けられた者にもう一度生かすチャンスを提供することを意味しますが、命が断たれた上での復活ではありません。また「復活なんてことがあり得るか」と言う人には、復活と言うことを、完全に死んだ人の蘇生として受け止めておられるから、そういう批判をされるわけです。
そのほかにも、復活ということについてはいろいろな理解の仕方や批判があって、そのどれもがもっともなことと言えますが、ただし、聖書が語っているのは、復活の一般論ではなく、神が、神の力をもって、イエスを死人の中から甦らせたこととしての復活であります。
そうは言うものの、この復活ということが理解しがたく信じられないのは事実です。先に述べましたように、イエスが復活されたことは、復活のイエスに出会った人たちがほかの人たちにそのことを話しても誰も信じなかった、と言います。またパウロがアテネで人々の求めに応じて彼らにとって新しい教えとして興味を抱いて聞いていた話の中で、ことがキリストの復活に及ぶと「ある者はあざ笑い、ある者は『そういう話はいずれまた聞かせてもらおう』と言ってその場を立ち去った」といいます(使徒言行録17:32)。アテネといえば知者の集まる所として自負していた町ですから、復活のことは、彼らの理性や知性によって一笑に付されたわけです。
ことほどさように、復活ということは「聞いても分からない」という性質のことです。それは、わたしたちが何かについて「分かる」というのは、わたしたちに分解・総合する力があってのことです。「分かる」と言えるのは、わたしたちが、その対象となっている物事を把握する主体となっているからです。ただ、そうは言っても、この主体には限界がありました。自分を超えたものについては、分かりようがありません。死後のことなどそうです。
死後のことについていろいろ分かっているかのように言う人がおりますが、どうしてわかったと言えるのか、疑問です。クリスチャンはキリストの復活を信じていますが、この「信じる」ということも、わたしたちの中に「信じる能力」があってのことではありません。ことはキリストの復活に限りませんが、こういうことを「信じられるか」と問われたら、「信じられません」というのが正直なわたしたちの事実です。しかし、そういっている自分が逆転するのもまた事実です。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年10月のラジオ放送予定>
10月 1日 金原信義 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
8日 金原信義 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
15日 金 起泰 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)
22日 金 起泰 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)
29日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」