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解説 ウエストミンスター信仰告白(62)
岡田稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第29章 主の晩餐について・・・1・・・
1 わたしたちの主イエスは、渡される夜、主の晩餐と呼ばれる彼のからだと血との礼典を制定され、彼の教会において世の終りまで守るべきものとされた。それは、彼の死によるご自身の犠牲を不断に記念するため、その犠牲のすべての祝福を真の信者に保証するため、彼らのキリストにある霊的養いと成長のため、彼らがキリストに対して負っているすべての義務を更に履行するため、またキリストの神秘的からだの肢体としての彼らのキリストとの交わり、また彼ら相互の交わりのきずなと保証になるためである(1)。
1 Ⅰコリント11:23-26、Ⅰコリント10:16,17,21、Ⅰコリント12:13
一 これは、主の晩餐の定義である。その目的・効用を詳記することによって、プロテスタント教会に生じた最初にして最大の論争点に関する改革派教会の教理を明確に告白している。ルターは「パンとともにキリストのからだでもある」と言い、ツイングリーは「単なる記念のみ」であると言うのに対して、カルヴァンは「記念とともにキリストは霊的に臨在する」と言っている。
ルターは後年、このカルヴァンの表現が、たしかに適切な中庸であることをもたらした―というように、最近刊行の一教理史の本は記している。ここに表明されているところは、まったくカルヴァンの所説に基づく教理である。しかし、ローマ・カトリック教会の教えが直接の論争の相手であるから、以下、主にその誤りを指摘する言葉で満たされている。
2 この礼典において、キリストが、生きている者または死んだ者の罪のゆるしのためにみ父にささげられるのではなく、またどのような現実の犠牲がなされるのでもない(1)。それは、キリストが自らご自身をただ一度だけ十字架にささげられたことの記念、またそのため神にささげうるすべての賛美の霊的ささげ物にほかならない(2)。それゆえ、いわゆる教皇主義的ミサ犠牲は、選民のすべての罪のための唯一のなだめの供え物であるキリストのただひとつの犠牲にとって、最もはなはだしく有害である(3)。
1 ヘブル9:22,25,26,28
2 Ⅰコリント11:24-26、マタイ26:26,27
3 ヘブル7:23,24,27、ヘブル10:11,12,14,18
二 この項は、ローマ・カトリック教会のミサに対する非難である。ローマ・カトリック教会の宗教を迷信ではないと思い、有害であることに気づかない人は、この一事に注目すべきである。ローマ・カトリック教会の礼拝の中心はミサである。ミサは、主の晩餐の根本的な迷信化である。神父が司祭と呼ばれるのは、ミサを司るからである。ミサは天主に向けて、もう一度キリストのからだを献げる儀式である。そして、その効果は罪人のためのなだめの儀式(旧約時代の神殿のそれと同様)が、実際、そのたびに献げられるというのであり、さらに、それが死人のためにもと主張されているのである。
宗教改革者が憤りを爆発させたのは、決して誤りではない。その意味で主の十字架と、主の晩餐とが実質的に同一の意義を持つ事柄だと考えてはならない。その意味で主の十字架は一回だけで完全である(へブル9:12)。そして、主の晩餐は、それの永続的記念に過ぎない。主の晩餐でなされる神への供物は、ローマ人への手紙12章以下に言われている「信徒の献身」のことである。
3 主イエスは彼の教役者に、この規定において、礼典制定のみ言葉を会衆に宣言し、祈り、パンとぶどう酒の品を祝福し、それによってこれらのものを普通の用から聖なる用に聖別すること、パンを取って裂き、杯をも取り、(彼ら自身もあずかりながら)陪餐者に二品を与えること(1)、しかしその時に列席していない者にはだれにも与えないことを命じられた(2)。
1 マタイ26:26-28、マルコ14:22-24、ルカ22:19,20、Ⅰコリント11:23-26(*)
*マタイ26:26-28とマルコ14:22-24およびルカ22:19,20を、Ⅰコリント11:23-26と比較
2 使徒20:7、Ⅰコリント11:20
三 この項は、主の晩餐の執行の仕方を示している。同時に、誤った気ままな仕方を排除している。特に、ここで二つの誤りが指摘されている。① 教職者だけで、別にこれを守ること。② 私的ミサ、すなわち、病人など欠席者を訪問して、この一部を使用し、ミサにあずからせること、である。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」