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第80課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・32・・・
D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:11~14・・
「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、このことに励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでに来ている。なぜなら今は、わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日は近づいている。・・・」(11,12節a)。
ここで「眠りより正に目覚める時である」と教えられていますが、ここでの「眠り」というのは、霊的無関心、または霊的無気力の状態の象徴です。世の楽しみや事業に没頭していて、神や自分の魂・永遠と言ったことについては、僅かしか、あるいは全く無関心である人々は、霊的睡眠の状態にあるのです。真のキリスト者でさえも、一時的にはこのような霊的睡眠の状態に陥ることは稀ではありません。彼らは神に関する事柄について無気力、無自覚的になることが時としてあり得ることです。
霊的に眠っている人々は目を覚まさなければなりません。パウロは今こそ目覚める時であると言うのです。その理由として、パウロは、私たちが初めて信仰者となった時より、今や救いは近づいてきていることを付言しています。
ここでの「救い」とは、私たちが死に際して罪より完全に救い出さていること、あるいは復活の時に私たちが罪とその結果の腐敗から、完全に救い出されることを意味しています。さらにこれら二つのことを共に含んでいると考えてよいのです。
私たちが主と共になる日、あるいは主の再臨の日のいずれを考えていようと、私たちが初めに主を信じるようになった日に比べて、大いなる救いが私たち一人一人に近づいてきていることは真実です。この思想こそ、すべてのキリスト者がそのキリスト者生活を不断に目覚めて生きて行くのに、大きな励ましとなるべきものです。
今日の教会の中において、ここでパウロは語っているような意味において、霊的に眠っている多くの会員たちがいます。これらの人々がみ霊によって再生しているかどうかは、神のみが確かに知っておられるのです。しかし、聖書の簡単な引照もできず、先の人の祈りの繰り返ししか祈ることが出来ず、礼拝にはごく稀にしか出席せず、出席しても上の空で会堂の中をキョトキョト眺め回している人々、ダビデ王がバプテスマのヨハネより先の人物か、後の人物かを言うことすら答えの出来ないような人々、このような教会員は霊的に眠っている人たちです。
これらの人々は、今こそ目覚めるべき時なのです。おそらく、そのような名前だけの教会員は救われていないかもしれませんし、ある人たちは生まれ変わってはいるが、長い間にわたって霊的成長が止まってしまっているのです。今こそ、このような人たちがその眠りから目覚めるべき時なのです。このような霊的睡眠の状態の教会員が存在することこそ、今日の教会が無気力化し、形骸化し、それと対照的に種々の異端や疑似教会がはびこる理由なのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」