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バラ・マカルピン「日本伝道百年史」・・1・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)
1 ゼームス・H・バラの来日
バラ先生は、米国ニューヨーク州デラウェア、カウンテー ホバアトと言う町で、1832年(天保3)9月7日に生まれました。
父はジョン・ハミルトン・バラ(1800~1888)と言い、母はアン・グレイギ(1807~1887)と言い、ともに米国のダッチリフォームド教会に属する熱心な会員であった。アン・グレイギ夫人の願いは「子供に恵まれたら、その幾人かは、私の代わりに外国宣教師となってもらいたい」と言うことであった。そうした篤信の母親の祈りと教育によって、その家族の中から4人の宣教師が出たのも偶然ではなかった。その後一家は、住居をダウエンポルドに移したので、少年バラはそこで小学校に通学した。
時に魚を漁(すなど)り、農業の手伝いをし、羊を養い、バターをつくったり、気まめに働いて日曜日には8哩ほど離れリフォームド長老教会に出席した。
1844年、バラ先生12歳の時ニューヨーク市に一家は転じ、さらにロックランド、カンテーに移った。この地のウエスト バプテスト ダッチ教会に出席、会員となり、将来、外国宣教師となる決心をしたという。
1852年の秋、ニュージャーシー州ニューブラウンズビックのラドガースカレッジに入学し、同校を卒業後、ニューブラウンズビック神学校に進み、その在学中にダッチリフォームド教会から、日本へ宣教師を派遣することとなり、バラ氏は卒業後その召命に応じて日本に行くこととなった。
1861年、バラ氏はヴァージニア州ブロスベリー出身の、同様に宣教師志願のマーガレット・キンナー(1841~1909)女史と結婚して間もなく、6月1日ニューヨーク港から帆船の「キャセイ号」に乗って米国を出発し、アフリカの喜望峰(ケープタウン)を経由して、122日を費やして9月28日、やっと上海に着いたのであった。
バラ夫妻は、さらに10月23日、上海から貨物船アイダロジャース号に乗り換えて日本に向かったが、その船は156トン積の帆前船で、乗客4、5名、水夫8、9名のボロ船であった。途中11月7日、熊野灘で暴風にあい、船体は沈没の危険にさらされ、船長も絶望して、一同は死を期す有様となった。
バラ氏は当時の心境を「私は今、自分が死ぬのを憂い悲しむ考えはありませんでした。ただ、私を日本に派遣したリフォームド教会の伝道局は、先に一人の宣教師を支那に送ったが、すでに日数を経過しても、その到着の報告もなく、きっとその船は難破してしまったものと噂されております。私の乗っている船も、今や暴雨風で海底に沈もうとしている。リフォームド教会の伝道局は、微力を以て外国伝道を新たに行わんとし、今、日本の国土を眼前にしながらその伝道計画は、水泡に帰さんとしています。この156屯の小船に伝道局の存亡がかかっています。自分が死ぬのは惜しくはないが、唯、伝道局の前途が心配であります。「神よこの船をつつがなく無事着岸せしめ給え。私は誓って身命を惜しまず、忠勤に励んでこの使命を全ういたしますと祈りつつ、この誓いを以て私は日本に来たのであります。神はこの誓いを果たせるために私を紀州灘で救われた」(バラ先生来朝40年祝賀会演説)と述べておられる。
バラ氏夫妻は、19日を費やして1861年(文久元年)11月11日、やっと神奈川に着くことが出来たのである。嵐はただ海上のみではなかった。当時の日本もまだ尊王攘夷、王政復古の倒幕のため不穏な状態にあった。特に西洋人は夷狄(いてぎ)と軽蔑し、殺傷事件がひんぱんに起きていた。宣教師に対しては、切支丹邪宗観の立場から蛇蝎(だかつ)のように忌みきらっていた。
幕府は先年来(1860・萬延元年)、銅を外人に私売するのを禁じ(10月17日)、米、麦粉を売ることも禁じた(11月3日)。12月5日には米国公使館通訳官ヒウスケンが江戸の麻布古川橋で暗殺され、この年(1661)5月28日には、水戸藩士の14人が英国公使館の品川東禅寺を襲撃して英人2人を斬るなど、物騒な時代であった。
江戸幕府と天皇家の妥協をはかって、尊王攘夷の対立を和らげるため、皇女和宮が将軍家茂に降嫁する大行列が木曽道中を、深谷宿(埼玉県)から熊谷宿(埼玉県)に向かっている頃、バラ先生夫妻は日本に上陸したのである。
この日11月11日は、バラ夫人キンナーさんの誕生日に当たっていた。バラ氏29歳、キンナー夫人21歳で、この若い夫婦が最初のスイートホームとなった場所は、神奈川の成仏寺本堂で、その本堂を4つに区画した一室であった。それは米国領事の斡旋で神奈川奉行から居住許可を受けたところであり、すでに、北米プレスビテリアンミッションから宣教医として派遣されたヘボン博士が住んでおり、他に先着のダッチリフォームドミッション派遣のS・R・ブラウン宣教師夫妻と子供たちと、そしてバプテスト教会のゴーブル宣教師が住んでいた。
バラ夫人は神奈川(横浜市)に到着した時の有様を「旧日本の瞥見(べつけん)」に次のように記している。
「私達は、寒さ身にしむほどの11月の日暮れにやっと到着しました。私の21歳の誕生日に、ブラウンさんの家族は私達を迎える為め、埠頭に行かれたのですが、あまり早すぎたので暫く我々の船の到着まで友人の家で待つこととしました。その為め、私達は皆に会うため、新しい居留地の道を歩かされ、それから神奈川まで小舟で行かねばならなかったのでした。その舟とは天蓋のない小舟で、半身裸体の船頭が船歌にあわせて掛け声をかけながらこいで行ったのです」。
この文章は、月刊「つのぶえ」からの転載で、「つのぶえ社」から許可を得ています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」