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解説 ウエストミンスター信仰告白(63)
岡田稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第29章 主の晩餐について・・・2・・・
4 個人的ミサすなわち司祭またはその他の者からひとりでこの礼典を受けることは(1)、会衆に杯を与えることを拒むこと、品々を礼拝すること(2)、崇敬のためにそれらを持ちあげたり持ち回ったりすること、偽りの宗教的用途のためにそれらを保存することと同様に、すべてこの礼典の性質とキリストの制定に反する(3)。
1 Ⅰコリント10:16
2 マルコ14:23、Ⅰコリント11:25-29
3 マタイ15:9
四 前項に引き続き、ローマ・カトリック教会の教えや、やり方を具体的に非難している。その基礎的な誤りは、第一にパンがキリストのからだに変化する、という教えであり、「これはあなたがたのための、わたしのからだである」(Ⅰコリント11:24)の「である」を字義通りに解釈するために生じた無理がある。ルター派も、この点にこだわったために迷信から十分には逃れきれなかった。第二に、前述のように、ミサを犠牲とする考えである。第三は、品々を礼拝しること(これは第一の点より来る直接の結果であり、ルター派ではキリストの人性を礼拝すると考える)。第四は、さかずきを一般信徒には分け与えないこと(マタイ26:27の「みな、この杯から飲め」は11使徒に言われたと理解している)。第五は、個人的ミサで、第四のことに関係して、司祭だけで別個に式を守ることは、聖俗二元論であり、他は第一点の延長である。
5 キリストによって定められた用途のために正しく聖別されたこの礼典における外的な品は、真に、しかしただ礼典的にそれらが表わしているもの、すなわちキリストのからだと血という名でしばしば呼ばれるような関係を、十字架につけられた方に対して持つ(1)。しかしそれらは、その実質と性質とにおいては、依然として前と同じように、真実に、ただパンとぶどう酒のままである(2)。
1 マタイ26:26-28
2 Ⅰコリント11:26-28、マタイ26:29
五 この項では、前述のローマ・カトリック教会の基本となっている化体説を具体的に非難している。パンはパンであり、ぶどう酒はぶどう酒であることに終始変わりがない。ただ、礼典が正しく信仰的に執行されている時には、この品々は主イエスの血と肉とのサクラメンタル(礼典的)な一致関係にあるから、パンがキリストの肉と呼ばれ、ぶどう酒がその血と呼ばれる。しかし、「である」は、どこまでも「引証・保証」の意味である。従って、キリストそのものよりも、キリストの贖いの祝福を意味し、また、与える効力を持つものである。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」