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バラ・マカルピン「日本伝道百年史」・・2・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)
2 成仏寺の生活・・1・・
「どんな場所へ案内して呉れるのかと尋ねて見たかったのですが、遠慮してしまった。するとやがてお寺について、大きいどっしりした門が開いて、大きい立派な建築物、門からそこへ石畳をしいて舗道が出来ているのを見て驚きました。ブラウン一家は本堂に接する庫裡(くり)におられ、バプテスト派の宣教師ゴーブル氏は境内の小さい家に住んでおりました。
ヘボン博士は独り本堂に住まっておられましたが、家族はその頃アメリカに帰っておられたので、私達はヘボン博士と共に本堂に住むことになりました。ブラウン夫人の言われるには、『これが日本のこの地に於ける唯一の宣教師館なのです。あなた方を歓迎しますよ』と、ヘボン博士は独り住まいにあきて、私共夫婦を親切に迎えて下さいました。寺の境内の外景は立派でありましたが、家の中は稍(やや)暗く、陰気でした。博士は仏像を取り除き、ガラス窓や紙の仕切りなども作ったのでしたが、私共はブラウンさんの一家に迎えられました。ヘボン博士は喜色満面、微笑をうかべ戸口で私共を迎え応接間を通って気持ちのよい居間に案内して呉れました」(ドクトルヘボン伝)。
こうしてバラ夫妻の日本伝道の出発は、仏教寺院を本拠にして始められ、その本堂が日曜礼拝の教会堂となり、横浜居留の宣教師や信徒たちが小舟に乗って礼拝に集まった。宣教師たちの子供のため、バラ夫人などが日曜学校を受持った。クリスマス礼拝も、パーティーもこの成仏寺の本堂で行われた。
バラ先生の日課は、毎朝早く起き出して、成仏寺から1キロ程北の丘にある「岩崎山平尾内膳守物見の松」に登り、その樹下でしばらく祈って帰り朝食をとられ、それから横浜の167番の建物に出かけて、その日の教務を執られた。 成仏寺の附近には、本覚寺に米国領事館、フランス公使館には神奈川甚行寺、オランダ領事館には長延寺、成仏寺のすぐ左り隣りの慶運寺にはフランス領事館にあてられ、成仏寺前の小川の向か側の浄瀧寺は英国領事館があった。
この寺町の一画に、常に「尊王攘夷」をとなえる水戸浪士や長州、土佐などの浪人たちが横行して、すきがあれば外国人を斬殺しようとねらっていたのである。また江戸幕府もキリスト教禁制の立場から、門衛や下僕にしたてたスパイを入れて、成仏寺の宣教師の行動をいつも探っている有様であった。幕府は宣教師を寺に軟禁して監視するという政策をとったので、寺の門の両側には、保護という名目で監視の役人がいつも4人ずつの交替で立ち番をしていた。
成仏寺に於けるバラ、ヘボン、ブラウンの三家族は異教の国、日本にあって、言語の通じる唯一の友であり、また慰めであった。日本語のわかるアメリカ人はおらず、また、英語を解する日本人もいない生活は、ずいぶんと不自由であったが、言葉によらず行ないによる宣教師たちの生活に感化された一つの物語が残っている。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」