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解説 ウエストミンスター信仰告白(64)
岡田稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第29章 主の晩餐について・・・3・・・
6 パンとぶどう酒の実質が、司祭の聖別あるいは他のどのような方法ででも、キリストのからだと血の実質に変わると主張する(普通に化体説と呼ばれる)教理は、聖書に反するばかりでなく、常識にも理性にも反し、礼典の性質をくつがえし、従来も現在も様々な迷信、否、ひどい偶像礼拝の原因である(1)。
1 使徒3:21、Ⅰコリント11:24-26(*)、ルカ24:6,39
*使徒3:21をⅠコリント11:24-26と比較
六 前項までのローマ・カトリック教会の教理への非難の結論である。「常識にも理性にも反し」との批評は、最大の軽蔑の言葉であろう。やや、ローマ・カトリック教会の理性観を逆用して、とどめの攻撃を加えた感がなくはない。
7 ふさわしい陪餐者は、この礼典において、見える品々にあずかりつつ(1)、信仰によって現実にまた実際に、しかし身体的また肉的にではなく霊的に、十字架につけられたキリストと彼の死のすべての祝福を受け、またそれに養われる。その時キリストのからだと血とが、身体的または肉的にパンとぶどう酒の中に、またそれらと共に、あるいはそれらのもとにあるわけではないが、この規定において、品々そのものが信者の外的感覚に対すると同じように現実に、しかし霊的に、信者の信仰に対して存在する(2)。
1 Ⅰコリント11:28
2 Ⅰコリント10:16
七 ここで初めて、積極的な主の晩餐の聖書的なあり方が述べられている。すべては霊的であって、しかも現実にキリストとこの贖いの祝福が、この礼典において存在し、与えられていると言う一点にかかっているのである。
8 無知で邪悪な者がこの礼典において外的な品を受けても、それによって示されているものを受けないばかりか、彼らがふさわしくないままでこれに近付くことによって、キリストのからだと血とを侵し、自分にさばきを招くのである。それゆえ、すべて無知で不信仰な者は、キリストとの交わりを享受するのに不適当であるから、主の食卓にあずかる値打ちがないし、彼らがその状態を続けている限り、キリストに対して大罪を犯すことなしにこの聖なる奥義にあずかり(1)、あるいはあずかることを許されることはできない(2)。
1 Ⅰコリント11:27-29、Ⅱコリント6:14-16
2 Ⅰコリント5:6,7,13、Ⅱテサロニケ3:6,14,15、マタイ7:6
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」