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第81課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・34・・・
D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:14・・
「夜はふけ、日が近づいている・・・・」(13:12a)・・・2・・・
それでは、聖書の歴史観とは何でしょうか。聖書によると、キリストが十字架にかけられて死を遂げられ、次に死人の中から甦られた時、世界の終わりが始まりました。それ以前の全てのことは、カルバリの十字架のための準備的ものでした。それ以降の全てのことは、永遠を迎えるために、この世の事柄を完結させることの一部に過ぎないのです。Ⅰペテロ1:19~20.へブル1:1~2、9:26、Ⅰコリント10:11と比較すると良いです。
これらの聖句から、使徒たちや初代キリスト者たちは、神の日の数え方による終わりの日の中に生きていたということがわかります。私たちは今日は日常生活においてカレンダーの時によって生きています。しかし、もし私たちが聖書をよく理解しようとすれば、聖書の歴史観を把握して、神の時間の計り方を知らなくてはなりません。聖書の歴史観によると「万物の終わりが近づいている」(Ⅰペテロ4:7)のであって、キリストの再臨は近づき、彼は速やかに来られるのです。その理由は再臨は神のご計画における次の大きな贖いの出来事であるからです。更に、それは神の計画における最終の出来事であるとも言えるからです。それは、私たち一人一人の前方に巨大な軌跡として現れつつあり、それはこの世界歴史を実際に終止させるものなのです。
歴史の黄昏なのです。長くてもの憂い、罪と苦しみと戦いの時代は、ほとんど終わろうとしています。私たちはあとどれくらいの時間が再臨の前に残されているのかは知りません。しかし、それは構わないことです。この世界は現在のコースを終わりなく続けるのではありません。それは終末へと急ぎつつあるのです。時間は永遠に終結し、働きは休息に、信仰は現実となり、闘争は勝利に帰着するのです。
しかし、その終末はこの歴史の黄昏の彼方に、そして、その黄昏と長い長い夜は過ぎ去ろうとしています。新しい曙は近づきつつあります。それは永遠の曙であり、夜明けなのです。この世とこの世に属するものとは過ぎ去ろうとしており(Ⅰコリント7:31、Ⅰヨハネ2:17)、すべてのものが新しくされる永遠の世界が近づきつつあります。真摯なキリスト者はこの真理をしっかりと自覚して、日毎の生活を生きなくてはならないのです。「日が近づいている」ことを知っている者として生きなければならないのです。
永遠の夜明けについて考えることは、私たちを消極的になりやすい一つの原因は、聖書の歴史観を把握することに失敗しているからです。多くのキリスト者たちが主の再臨に与かることを熱心に望む代わりに、自分の計画や構想を完成させるまで、それを先送りにしようとするのです。私たちは自分の重要な仕事が進行中であるとき、人間の歴史の終末が今来ないことを願うのです。しかし、そのような態度こそ聖書の歴史観とは真っ向から背走するものです。
神の御思いは人間の思考に優っており、神の経綸は私たちの行動を越えています。私たちの計画の実施のために、私たちが神の贖いの出来事、すなわち、再臨や終末から、注視の目をそらすようになる時、私たちはもはや真の信仰的な態度ではなくなってくるし、また信仰によって歩んでいるとは言えないのです。神がしてくださる贖いの行為は、私たちの活動に優先するものです。私たちは自分たちの計画や働きを永遠の光に照らして行わなければならないのです。 永遠は絶対的に重要なのです。時間が相対的に重要であるに過ぎないのです。もし私たちが時間を永遠より重要であると見るならば、私たちはもはや聖書的な立場と聖書的な歴史観に立っているとは言えないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」