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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・61・・・
問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。
答・・4・・
「復活ということがあり得るか」という議論は、答えは出そうにはありませんが、パウロは次のようなことを言っています。
「わたしたちは、四方から苦しめられても生き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(Ⅱコリント4:8~9)。四方から苦しめられたら行き詰ります。途方に暮れたらもう望みはありません。虐げられるままでは見捨てられているとしか思えません。打ち倒されたらもうそれっきりです。
それなのに、こういうことが言えるのは、パウロという人が百戦錬磨の勇士みたいな人であったかと思われますが、彼はその秘訣を「わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために、わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬ筈のこの身にイエスの命が現れるために」(同前10以下)、つまり、どんなことがあってもへこたれないでおれるのは、イエスの復活を信じているからだ、と言うのです。
ここで明らかなように、パウロは、自分の中にどんなことがあってもへこたれない力があるからだとは言いません。パウロは、「もうダメだ」というしかないどんな事態の中にあっても、それでダメになってしまわないでおれたのは、イエスの復活の事実の中に示されている事実、すなわち、神の大能は、死者を甦らせているのであるから、イエスを信じイエスに従って生きている自分にも、その力が働くことを信じているからだ、と言っているのです。誰かを信じているということは、その誰かの持っているものに自分もあやかれます。「いよいよとなった時には「あの人に頼めば良い」という信頼がありますから、多少の動揺はあるにしても、「もうダメだ」ということにはなりません。
つまり、ことは信仰にある、ということになります。パウロにとって、どんな時にも失望せず挫折することもないのは、イエスを死人の中から甦らせた神が自分の神であるからだ、と言っているのです。
こういうことから言って、パウロは洗礼を受けたことについて「あなたがたは知らないのか、キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」と言っています(ローマ6:3~5)。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2018年1月のラジオ放送予定>
1月 7日 杉本美由紀 (名古屋キリスト教社会館チャプレン)
14日 杉本美由紀 (名古屋キリスト教社会館チャプレン)
21日 山田麻衣子 (日本基督教団名古屋北教会牧師)
28日 山田麻衣子 (日本基督教団名古屋北教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」