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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・3・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
2 成仏寺の生活・・2・・
ヘボン博士の談に「或時、定次郎という日本人の家僕を雇い入れたが、二週間程たって急に暇を呉れと申し出た。どうしてかと聞くと、彼の言うに、自分は某藩の武士であるが、外人の内情を探って、隙があれば斬り捨てようと思って家僕に入り込んだが、貴方は夷人とは思われない程に親切で、仁義道徳をわきまえて居られるから、殺すに忍びず、自分の考えの誤りであったことを覚ったので御免をこうむって帰ります、との事であったが、その後も家僕を雇い入れると、それは、しばしは政府の探偵であったことが解った」ということである。
切支丹禁制の高札が国中至るところに立っていた時代のこととて、当時、日本語を学ぶにも、その教師を得ることは容易ではなかった。バラ先生の祈りは、日本の言葉で祈り、日本の言葉で聖書を読み、日本の言葉で福音を語ることであった。熱祷の人であり聖書を愛読するバラ先生は、十字架の福音をこの異教国日本に一日も早く宣べ伝えなければとの切なる願いであった。従って、宣教師の日本人下男達から日本語を手まねで聞きただすことが、唯一の日本語を学ぶ道であった。
その頃、幕府は横浜運上所官舎内に英学所を設けて、幕臣の子弟に英語を教えるため、バラ先生、タムソン氏が共に教師になり、次第に日本人との接触が開けて来た。さらに幕府老中の紹介によって、日本語教師として鍼医の矢野元隆(玄隆?)を得ることが出来て、先生はその矢野から日本語を学ぶこととなった。成仏寺にあったヘボン、ブラウンの両師も矢野によって漢訳聖書を日本文に翻訳する仕事を続けることが出来たが、矢野は病弱でヘボン博士の診察によると、彼は肺結核であったと言う。
この年、1862年(文久2)6月26日、バラ夫人はヘボン博士の手によって長女のキャリー・エリサベス・バラ嬢を出産した。そして9月7日、バラ先生30歳の誕生記念日にキャリー嬢はブラウン宣教師によって幼児洗礼を受けた。異郷の日本にあって、乳児を育てる苦労をバラ夫人は次のように手紙に記している。「私の憐むべき嬰児は、この世界を堪え難いところと考えねばなりません。私共は、この児に適した食物を与えることは出来ません。日本人はミルクを用いませんから、私達は決心して乳母をおくまで、私はお茶と米の汁とを与えて折ります。夜中暑さに堪えかねて、彼女は目をさましますが、夜中に起き上がることは私達の生命をちぢめる思いがいたします。それは、驚くほど恐ろしい蚊の群れが蚊帳を出るや否や、私達の鼻先を目がけて襲撃しようと待ちかまえているからです」。とバラ夫人にとって蚊軍は「迫害者」であり、成仏寺は「蚊の寺」であると名付けていた。
1863年(文久3)、この年、日本は尊王攘夷の運動がはげしく、外人襲撃事件も多くなったので、成仏寺に住んでいたバラ先生たちは、米国陸戦隊の護衛の下に居留地内の米国領事館へ一時移ったが、1864年(元治元年)1月、横浜海岸の波止場付近に家屋が与えられて半分はブラウン氏、半分はバラ先生が住んだ。
この家屋は、元居留地167番を米国居留民の礼拝場として、ダッチリフォームドミッションの名義で、幕府から下附されたもので、ペルリ提督と日米条約の談判が行われた地であった。ここで英語の教授も始まったが、後に横浜公会創立の地ともなったのである。
バラ先生は日本に来て二ケ年、初めて日本語で祈りをすることができるようになった。集まった人びとにこれは大きな感動を与えたのであるが、バラ先生の宣教は、実に祈りをもって始められたのである。
*この文章は、月刊「つのぶえ」からの転載で、つのぶえ社から許可を得ています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」